ひらのは こんらん している!
平野刹那が御ノ道家に雇われたのは、今から約半年前のことだった。
母が亡くなり、まだ中学生の妹と二人で生きていかなければならなくなった時に偶然、御ノ道家の現在の当主に出会ったのである。
最初の半年は研修期間(といっても、さすが御ノ道家、正規の月給が支払われる)ということで、一所に留まることなく、色々な警護を任された。その間に、立ち居振る舞いや言動も、“御ノ道家に相応しいものを”と散々叩き込まれ、ちょっとだけうんざりしたことを覚えている。
(……まぁ、もう慣れましたが)
いつの間にか、頭の中の独り言ですら敬語になっていることに、人間の適応力の高さを思う。
そして、半月前。
一体何を見込まれたのか、御ノ道家の御曹司・竜宝の身辺警護の任に就くこととなって。
現在は彼の買い物に付き添った帰り、車中で待機をしているのである。
(買い物はすべてお済みになったと仰ってたよな……突然とめろ、とは、一体何があったと仰るんですかね)
竜宝は時折そうやって、突然よく分からない言動をすることがある。といっても、分からないのは最初だけで、段々これは意味のある行為なのだと理解出来たり、本人が後から説明してくれたりするから、大抵は放任して付き従えばいい――と、金井が言っているから、そうしているのだが。
(金井さんも自由なお人のようだからな……竜宝様とかなり気が合うようで、竜宝様も楽しげにされているから……少し、羨ましいかもしれないな。……私も、そういう面白みがある人間になれたらいいのに)
ぼんやりと考えながら、帰りを待っていたその時。
ザザ、と無線にノイズが走った。
素早く姿勢を正す。
(何か起きたか?)
金井からの通信だった。呼び出されることを予期して、全身を緊張させた平野。
しかし、その耳に届いたのは――
『――適当な気持ち――ってるわけじゃ――ですね、本当にあの私、ひら――が凄くカッコイイなぁって心からそう――わけでして、だってほら――じゃないですか! 遠目に――ちょーカッコイイってそれしか思え――って! それで――少しでもお近付きになれたら――んて思っ――ですけど、――には王子に近付くしか――って、だからその――本当にすみませんでした! 悪用はしないので勘弁してください!』
聞いたことのない女の子の声だった。少し遠いところにいるらしく、雑音が混じり、言葉の途中途中がよく聞き取れなかった。周囲の雑音が普段より多く入っていることから、わざわざマイクの集音機能を高めてまで、彼女の声をこちらに聞かせたかったらしいことは分かる。が――
(……何だったんだ? 今の……)
――いかんせん、うまく聞き取れなかった。
眉をひそめ首を傾げる平野に、竜宝の高笑いが届く。
『はははははは! 傑作だ! あの堅物に? 惚れたっ? あっはっはっはっは! おい、金井、今のコイツの台詞、平野に聞かせてやったか?』
『はい、つつがなく』
『よし!』
その言葉を最後に、通信は切られた。
「……」
少なくとも、緊急事態というわけではないらしい。そのことだけ確信して、平野は運転席に座り直した。これまで見たことすらないような高級車の、上質な革張りの座席は、しっかりと彼を受け止める。
(……あとで、説明をしてくださるだろう……たぶん)
説明されても理解できるかどうか。時に竜宝は、理解を超えた行動を起こすことを、すでに平野は承知しているのであった。
それから十分もしない内に、竜宝と金井は戻ってきた。
竜宝はいつになく上機嫌で、放っておけば鼻歌混じりにスキップを始めてもおかしくないような顔で車に乗り込んだ。
「お帰りなさいませ、竜宝様」
「あぁ、平野、聞いたか? どう思った?」
「どう、と言われましても……」
矢継ぎ早の質問に、平野は面食らった。先程の通信のことを言っているのは分かる。この態度から、そこまでして聞かせたかったのだな、ということも。しかし、途切れ途切れの通信から、平野が読み取れたのは――カッコイイ、お近付きになれたら、王子に近付く……つまりあれ、竜宝様への告白だったんですよね? その後の竜宝様のお言葉とは少々矛盾するような気もしますが、それ以外考えられない――ということだけであって。
「――竜宝様にとっては、よくあることなのではありませんか? 直接言われるのは珍しいかもしれませんが……」
「……平野。通信、ちゃんと聞いていたか?」
「はい。聞いておりましたが、周囲の雑音の影響で、聞き取れない部分が多くございました」
「あー、なるほどそういうことか。なんだよ……」
竜宝は気落ちしたように座席に背中を放り投げた。
それから、投げやりに言う。
「あれは俺への告白じゃない。お前への告白だ、平野」
「……はい?」
「あの女が言っていたのは、すべてお前宛だ。カッコイイだの一目惚れしただの。全部お前のことを言っていたんだよ」
「……ええと、え?」
「だからわざわざ聞かせたんだ。良い配慮だったぞ、金井。さすがだな」
「お褒めにあずかり光栄です」
助手席に座った金井が、シートベルトをつけながら、にこやかに会釈した。
「もう用はないから、真っ直ぐ家に向かってくれ」
「あ、はい。――では、出発いたします」
まだ大いに混乱した状態であったが、真面目な気質と染み付いた習慣がそうさせたのだろう、平野が前後左右の確認と緩やかな発車を怠ることはなかった。
安定して走る車の後部座席で、窓に向かって頬杖を突き、竜宝が気だるげに話す。
「さっきの女は、美山美玲、という俺の同級生だ。今日初めて知ったんだけどな。幽霊のこと、話しただろう? お前らのことを探っていた幽霊。その正体だった。平野に一目惚れしたから、とかいうどうしようもない理由であそこまで詳細に探られては、堪ったもんじゃないな。探り方も、素人とは思えないし、真柴もまったく気付いていなかったからな。実はどこそこの諜報員だと言われた方がまだ納得できる」
「では、どうして引き入れるようなことを?」
金井の質問に、竜宝は少しだけ黙った。
「……まず第一に、本当にどこぞの諜報員だった場合、野放しにしておくよりは少なからず繋がりがあった方が対処がしやすい。第二に、神酒蔵波瑠が友人だと言ったからな。『スクナ』に繋がるなら、多少危険でも損は無いだろう。そして第三に――」
バックミラーの中でニヤリと笑う。
「――これは俺の勘だが、たぶんあいつは嘘なんかついていない。本当に平野が目当てだと思う。だとしたら――引き込んだ方が、面白いだろう?」
「仰る通りです、竜宝様」
すかさず同意した金井は、飄々とした笑みを湛えている。
平野は何というべきか迷って――言うべき言葉を何も見つけられず――黙ったまま運転に集中した。
★
竜宝の誕生日パーティの当日。
平野は会場警備を任されて、主に屋敷の内外を見回っていた。平野自身は特に不思議に思っていなかったが、本来屋敷の外・中・パーティ会場と三か所を見回るのがセオリーのところを、竜宝が手を回した
(誕生日パーティ、か……)
そういえば、妹の誕生日がもうすぐだった。こんな豪勢でなくていい。ささやかでも、何か用意しなくては――などと考えながら、夜の庭を照らし歩く。警棒も兼ねている懐中電灯は、柄が長くて持ちやすい。
風は無く、静かな夜だ。
春らしく、月がおぼろげに浮かんでいる。
(――……異常なし)
決められた区域を見て回り、次の場所へ。
行こうとした足が、ぴたりと止まった。
『――総員に連絡っ』
通信が入った。金井の声だ。緊迫している。
『不審者侵入の疑いあり。警戒態勢レベル引き上げ!』
と、いう、金井の言葉が、終わるか終わらないかの内のことだった――
「助けてっっっ!!!」
――その声が聞こえた瞬間、平野は反射的に駆け出していた。
声の発生源はそう遠くない。すぐ近くだ。その方向に走る。
懐中電灯を真っ直ぐに持ち直し、照らす。
――と。
そこに、ナイフを振りかぶった男の姿が現れた。
「何をしているっ!」
思わず怒鳴りつけると、男はびくりとこちらを振り向いて、「来るな!」というなり、すぐその前にかがみ込んでいた人を引き摺り起こして、ナイフを押し当てた。
「一歩でも動いてみろ……コイツを殺すぞ」
「……」
平野は息を呑み、押し黙った。
人質にされているのは女性だった。まだ若い――幼い、と言ってもいいぐらいの年頃。おそらくは、竜宝の同級生だろう。
光の中で、彼女は瞳に涙を浮かべていた。けれど、決して目を瞑ってはいなかった。恐怖に顔を強張らせていた。しかし、決して絶望してなどいなかった。
平野が迷ったのは、一瞬だった。
少しだけ息を吸い、吐いて――止める。
そして、懐中電灯のスイッチを二度、押した。
二度目を押すときは、少し角度を上にして、目に光が当たるように。なおかつ、押した時にはもう踏み込んでいる。
大した距離ではなかった。二歩半で完全に詰め切る。
まずは人質の保護。女性の首筋に手の甲を滑らせて、刃を内側から握る。
完全に手の中にナイフが収まったことを確認してから、平野はもう一歩踏み込んだ。
軽く握り直した懐中電灯を真っ直ぐ突きだす。
「がっ!」
顎に直撃し、男はのけぞった。その隙に手首を返し、男がナイフを持っている方の手を、柄で殴る。あっさり手放されたナイフが地面を転がっていく。その衝撃で、女性を羽交い絞めにしていた腕が離れたので、すかさず二人の間に体を捻じ込んだ。
「――っ!」
呼気に気合を載せる。
鋭く振るった警棒は、過たず男の鳩尾に突き刺さって――追撃は、必要なかった。
男は全身を細かく震わせながら、地面に倒れ伏した。
(――ふぅ、良かった。どうにかなった)
ネクタイで後ろ手に縛る。無線に「不審者、確保しました」と告げた時、自分の左手から血が滴っていることに気が付いた。ナイフを掴んだせいだろう。ハンカチで適当に縛る。
それから、振り返った。
そこには、力なくへたり込んでいる女性がいる。
(……大丈夫――では、ないですよね)
平野は、彼女を怖がらせてしまわないよう、ゆっくりと近付いた。
懐中電灯で足元を照らす。裂けたストッキングに、薄く血を滲ませた素足と、震える両手――
その瞬間、平野は悔いた。知らなかったのだから仕方がない、気付かなかったのだからどうしようもない、手遅れになる前に来れたのだからよいのだ――とは、とても思い切れなかった。
(もっと、もっと早く気付いてあげられれば……!)
ゆっくりと呼吸をした。膝をつき、慎重に様子を窺う。出来る限り語調を和らげて、決して刺激しないように。
「――大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
すると、彼女はびくりと肩を震わせて、手の甲で目元を擦ってから顔を上げた。
平野はその時、心の底から驚いた。
今まさに命の危機にさらされた少女が――むろん多少、いやかなり、引き攣ってはいたものの――まるでこちらを気遣うかのように――微笑を、浮かべていたからである。
「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます……」
涙に濡れた頬は微かに上気していた。それが緊張のためか安堵のためかは判別できない。
(安堵だったらいいな……)
と思う平野の目の前で、何故か彼女は目を見開いた。みるみるうちに、真っ赤に染まっていく顔。もう上気とかいうレベルではなくなって、平野が少し心配になった時、
「――……平野さん……?」
「え?」
か細い声で呟くが先か、彼女は自身を支える力を失った。
「お、っと」
ぐらりと大きく揺れて横ざまに倒れた上半身を、咄嗟に抱き留める。ただ意識を失っているだけであることを確認して、平野はそっと息を吐いた。地面に寝かせるのは気が引けて、そのまま抱えた状態になる。
(ともかく、ギリギリではあったけれど、間に合って良かった……)
腕の中でぐったりとしている少女を見ると、どうしても妹のことが思い出される。妹よりは少し年上であろうが、それでも、重ねてしまう。高熱を出して苦しむ姿や、母を亡くして泣きわめく顔。
(そういうのは、できるだけ見たくない)
普通に暮らせて、普通に笑えて、普通に幸せであれるのが一番だ――と、平野は思う――その“普通”を守れたのなら、それ以上の喜びは無い。
(――この仕事、案外悪くないかもしれないな)
ごく限られた一部の人間だけではあるが、誰かの“普通”を守れるのだから。
騒ぎを聞きつけた同僚たちが集まってくる。不審者が引っ立てられ、ナイフが回収され、警備が一層物々しくなる。
「平野!」
「金井さん」
竜宝の警護に付いていたはずの金井が駆け寄ってきた。
「人質は?」
「人質となっていた少女は無事です。緊張が解けたのか、今は意識を失っておりますが、外傷はほぼありません」
「そうか――」
金井は、平野の腕の中にいる少女を見て――にんまりと笑った。
「不幸中の幸いってやつかな」
「何がです?」
「いいや、何でもない。それより、竜宝様からのお達しだよ。来客用の部屋を一室――桜の間を――空けるから、そこに彼女を運び込んでくれ、と。医者も手配してある」
「分かりました。では」
平野は頷くと、特に迷うこともなく、少女をうやうやしく抱き上げた。
シャッター音とフラッシュ。
「……金井さん? どうして今、写真を?」
「竜宝様のご命令だよ」
まったく悪びれていない笑顔で、金井はそう言った。
この写真の意味を平野が知るところになるのは、随分と後になってからのことである――。
(……そういえば、どうしてこの子は、俺の名前を知ってたんだろう?)
見覚えのある顔ではない、と、平野は脳内で断言した。
その断言が、彼女にとってどれほど嬉しいものであるかなど知らずに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます