お近付きになりたい! 8
(あ、やば……――)
がんっっ!
「うおっ」
もう一度窓を叩かれる。今度は完全に私を脅すためのものだ。
そして、カーテンの隙間から、指で呼ばれる。
え、いやいや、誰がまさかわざわざ殺されるために出ていきますかって――
――男が葉鳥くんの首根っこを掴んで、頬にナイフを当てる。それを私に見せつけるように、窓へ葉鳥くんを押し付けて、今度は顎で命じてくる。
『来い』
……私は唾を飲み込んだ。行かなければ葉鳥くんが殺されてしまう。とはいえ、行ったところで、二人揃って殺されるだけだろう。駄目だ、膝が震える。せめて私だけでも助かりたい。死地には飛び込みたくない――!
その時、葉鳥くんが、かすかに首を横に振った。
口をパクパクと動かして、何かを伝えようとしている。……何だろう?
(――……に、え……え?)
『――逃げて――』
葉鳥くん――何ていい奴なんだ君は。自分が殺されかけてるのに、私みたいな地味な空気女を気にかけてくれるだなんて。
それで決心がついた。こんないい人を見捨ててなんて行けない! ムービーを止める。どうか気付かれませんように、と祈りながらスマホを仕舞い、カーテンを開く。
窓の鍵を下ろす――と、勢いよく窓を引き開けられ、いきなり目の前にナイフを突きつけられた。その凶器のぎらつきに、私は息を呑み込む。頭が真っ白になって、一瞬で体温が上がった。先程の決心が瞬時に翻るほどの、恐怖! 怖い、怖い、怖い怖いこわいこわいこわいこわいっ!
男が何か言っていた。絞った声で、けれど鋭く、重たく。しかし、私の耳には届かない。それを正しく認識できるほどの理性は残っていない。
すると、
「ひゃっ!」
腕を掴まれ、無理やり引っ張られた。窓枠が腹に食い込む。それでも強引に引きずられる。太腿や脛を窓枠の凹凸が削る。
「いっ、たっ……!」
「騒ぐな」
乱暴に引きずり出されて、私は地面にべしゃりと落ちた。
「立て。早くしろ」
目の前に銀色の刃を突き出される。
いやいやいやいやあのですね早くしろと言われましても足に力が入らないのですよっていうか怖くて怖くてもう無理死んじゃう殺される嫌だ。――いやだ!
無意識の内に涙が滲んできた。
その時。
「ま、待ってください」
――葉鳥くん。
葉鳥くんが私の前に割って入った。
「関係の無い人を巻き込むのはやめてください。これは、僕の問題で――」
「ここまで見られたんだ。もう無関係とは言えないだろ」
「ですが……お願いします。どうか、見逃してください」
「なら――お前、やるな?」
「っ……」
「お前がきちんとやってこれたら、見逃してやるよ。……どうする?」
「……」
「お前ら二人が揃って死ぬか――お前が、
……え?
ちょ、あの……今、なんて……?
王子を――王子を、殺す? 葉鳥くんが?
こ、この、この現代日本で、王子をパーティで暗殺しようってそういうこと?
「まぁ、どっちでもいいさ。死人が出るだけで、充分スキャンダラスだ」
男は心底面倒くさそうにそう言って、ナイフをぶらぶらともてあそんでいる。
葉鳥くんはしばらくの間俯いていた。握りしめた拳がぶるぶると震えている。
「……わかりました」
「葉鳥くんっ?」
「やってきます。だから――だから、この人のことも、例の件のことも」
葉鳥くんの肩越しに、男の厭味ったらしい笑みが見えた。
「お前が、本当に殺れたら、な」
☆
葉鳥くんが邸内に戻っていくのを見送ってから、男は私に命じた。
「お前はこっちだ。早く来い」
刃物を見せつけられては逆らえない。
私は大人しく立ち上がって、男の前を歩いた。さっき無理やり引きずられたせいで、ストッキングが破れている。そのうえ、膝もすりむいていた。夜気が当たってヒリヒリする。
生垣の迷路の方に誘導される。この迷宮に入ってしまえば、いよいよ誰にも見つけてもらえなくなるんじゃないか……?
……葉鳥くんが何をどうしようと、ここままいけば私は間違いなく殺される。
何故かって、さっき男が言った通りなんだ。
『死人が出るだけで、充分スキャンダラス』
一番の目的は王子を殺すことだろうけど……それはとっても難しい。葉鳥くんはたぶん、確実に、失敗する。
だから、私の登場はおそらく、コイツにとって不都合ではなかったはず。葉鳥くんが王子の暗殺に失敗したとしても、『御ノ道家のパーティで死人が出た』というスキャンダルの方は達成される。コイツにとってはそれで充分だという可能性が高い。
私は息を吸って、吐いた。
「あ、あの」
「黙って歩け」
「例の件、って、なんですか?」
「黙れと言っているだろう。止まるな」
「どうせ私を殺すんですよね。だったら、教えてくれてもいいじゃないですか」
「無駄な足掻きをするな。時間を稼いでも、誰も来ないぞ」
「よく調べてあるんですね。私もですよ」
「は?」
だから、これは無駄な足掻きじゃない。
さぁ、覚悟を決めろ、私! 怖いけど、怖いからって何もしなかったら、きっと悔やんでも悔やみきれない!
大きく息を吸って――
「――助けてっっっ!!!」
「っ、お前っ」
男がいきり立ったのが背中越しでも分かる。きっとナイフを振り上げただろう。私はとてもじゃないけど振り返れないし、逃げることも出来ない。ただ目を瞑ってしゃがみ込んだだけ。
風を切る音。
「何をしている!」
鋭い声とともに、強い光が真横から当てられた。
警備の人――! よっしゃっ、私はこれを狙っていたんですよ! 十五分で外を一周するとしたら、そろそろ来るって分かってました! 良かった! ありがとう!
内心でガッツポーズをした私とは裏腹に、男は高らかに舌を打って、
「っ、おわっ!」
私の首に腕を回した。片腕でヘッドロックを掛けられた形になる。
そしてナイフ――。
「来るな!」
警備員さんの懐中電灯の光がピクリと揺れて、止まった。私たちを丸い光の中に入れたまま、沈黙する。
「一歩でも動いてみろ……コイツを殺すぞ」
「……」
冷たい刃が首筋にぴたりとくっ付いている。迂闊に身動ぎも出来ない。
再び、恐怖で息が出来なくなる。もう私に出来ることは何も無い。ただ黙って、殺されるのを待つだけ……そんな。そんなの。やめて、嫌だ。波瑠ちゃん。こんな風にお別れなんて嫌だよ波瑠ちゃん。やだよ。怖い。助けて。嫌だ死にたくない。だってまだ平野さんにお会いすることも出来てないのに、こんなところで死にたくない。嫌だよ。平野さん。平野さん――っ!
その時、唐突に光が消えた。
警備員さんが懐中電灯を消したのだ、と理解するよりも早く、再び灯りが――さっきより強烈な光が点いて、またすぐ消える。真正面からそれを見ていた私の目は見事に眩んだ。尾を引く火花のようなものが眼球の上を飛び回るから、私は反射的に目を瞑る。
だから、その刹那に起きたことを私は見ていないのだ。
首元に何か――温かいような、大きいような、不思議な感触――が当たったと思ったら、すぐ離れ、耳元で風切り音。それに連なって鈍い音。と、男の呻き声。それが二度、三度と続いて――私の周りに空白が出来た。
私の背中に貼り付いていた殺意が遠退いている。
そのことを実感した瞬間、両足から力が抜けて、私は地べたに座り込んでいた。
(……たす、かった?)
胸から飛び出てもおかしくないほどの勢いで、心臓が早鐘を打っている。飛び出られては困るので、片手でそれを押さえ込んで、私は何度も息をする。頬が濡れていた。体が熱かった。
私は、生きている――。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
穏やかな声が私を覗き込んだ。
私は慌てて頬を拭い、顔を上げて――
「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます――」
――その人が、平野さんだ、と気が付いた瞬間。
色々と限界を突破した私の意識は風前の灯火の如くフッと掻き消えたのであった。
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