第99話 お栄の旅立ち―其ノ壱

 嘉永二年(一八四九)、四月十八日の早暁七ツ刻(午前四時頃)、北斎はお栄に看取られながら息を引き取った。

 北斎の死後、お栄の心は抜け殻のようになり、その日その日を無為に打ち過ごした。

 馴染みの書肆ふみやを通じて、前々から話のあった旗本や大店おおだなの子女への出稽古に赴く気もまるっきり起きない。

 北斎の遺した絵を請われるままに譲った銭で暮らし、日々、自失の体で過ごすお栄の姿を見かねたのか、かつての門人らが寄ってたかって世話を焼いた。

 門人の家を泊り歩いていたお栄が、久方ぶりに聖天町の狸長屋に戻ったときであった。

 長屋の油障子に背をもたれかけるようにして、一人の小柄な男がうずくまっている。

「えっ、だれだい?」

 近づいてみると、いつぞや弟の多吉郎と一緒に来たことのある加瀬家の下男であった。

 八朔はっさくを過ぎたとはいえ、まだまだ残暑が厳しい。それなのに、西陽にしびを呑み込むかのように大きな口を開けて居眠りをしている。

「ご苦労さまだね。わたいに用かえ?」

 お栄が声をかけると、下男は吃驚したような顔で跳ね起き、

「だっ、旦那さまが……中でお待ちでごぜえやす」

 と、小さな声を出す。

 建付けの悪い腰高の油障子をガタガタ開けると、弟の多吉郎が、

「姉上さま、お帰りなされませ。勝手に上がりこみ、申し訳ございませぬ」

 と、畳に手をつく。

「おやっ、ご用繁多というに、わざわざなんの用だね」

 多吉郎の顔を見るのは、北斎の葬儀以来であった。

 独り住みのお栄のことを案じて、幾度か訪ねてきたものの、その都度留守であったと言う。

「それは、済まなかったねえ」

 お栄は座敷に上がって、神妙な面持ちで弟に頭を下げた。

「なんの、なんの」

 多吉郎がいつものように顔の前で手をふった。

 それから半刻余、姉弟はひとしきり父親北斎の思い出話や四方山よもやま話に興じた。

 話の種が尽きはじめた頃、「さて」と、お栄が居住まいを正した。

「で、用向きはなんだえ。度々足を運んだというからには、用事があったんだろう?」

 お栄の問いに、多吉郎がわずかに眉間を寄せて、口ごもる。

「あのう……差し出がましきことながら……」

「えっ、じれったいね。はっきりお言いな」

 北斎ゆずりの性急せっかちさで、お栄が話の先を促す。

 すると、多吉郎が本郷弓町にある、わが御家人屋敷へ越してこないかと言うのである。

 お栄の先々のことをおもんばかってのことであろうが、多吉郎には妻もいれば子供もいる。一緒に暮らせば、互いに気詰まりなこともあろう。

「わたいは、これでも筆一本あれば、おまんまが食えるのさ。いまさら気ぶっせいな暮らしはごめんだよ。一人で気随気侭きままにやっていくから、かまわない

 可愛げもなく、お得意の豪気な科白を吐いて、断ったつもりであったが、その後、この弟は幾度も長屋に訪ねてきて、一緒に住むことを勧めてくれるのであった。

 お栄は「はて、さて、どうしたものかね」と思案した。

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