第98話 富士越龍図―其ノ参
嘉永二年(一八四九)の春先、北斎は重い病の床につき、気息
畳職人の女房お里は、朝夕、急須入りの茶や
「いつもいつもおかたじけだねえ。これ、このとおりだよ」
と、頭を下げるお栄に、お里が笑い飛ばす。
「なに言ってんのさ。困ったときはお互いさま。それに、アンタ、おさんどんが、からっきし駄目な人なんだからね。ま、これくらいのお世話は、わっちがやらせてもらおうじゃないの。どうってことないさ。気にするこたァないんだよ」
お栄はお節介が過ぎるこのお里を日頃
そんなある日、つとお栄の頭の中に
というのも、かつてお栄はこの柚子湯で北斎の中風(脳梗塞)を治したことがあるのだ。
あれは、文政の末頃であったろうか、二十年も前のことだとお栄は振り返った。
七十の古稀を迎える手前で、北斎が突然、倒れたのである。その躰が小刻みにふるえ、口の端からは
――もう駄目だ。さしもの北斎もこれで終わりだ。
だれもがそう思ったが、お栄だけは奇跡を信じ、片時も離れず世話をしつづけた。そのとき、朝夕服用させたのが柚子湯であった。
柚子湯の作り方は、まず柚子を庖丁ではなく、竹の
果たせるかな、効き目は抜群であった。柚子湯を服用させつづけること半年――北斎は嘘のように元気になり、再び絵筆を執るまでに
しかしながら、今回ばかりは違った。奇跡は起きなかった。もはや柚子湯も重湯も受け付けなくなって数日後、北斎の息が荒くなった。
深夜、北斎が
「お、お栄。さっき瑣吉の野郎がまたしても現れやがった。今度は英泉も一緒にお出ましだ。相も変わらず
馬琴のことはともかく、久々に英泉の名を聞いて、一瞬、お栄の心は乱れ動いたが、すぐ事もなげに言葉を返した。
「おやおや、善さんまでやって来たとはね。あいつも存外せっかちだ。まだ早い。おおとい来やがれって、追い返してやりな」
こみ上げる感情を抑えきれず、お栄の顔は泣き笑いの表情になった。
天井の暗がりをじっと見据えて、北斎が声を絞り出す。
「へへっ。オイラ、今度ばかりは、どうやら
「ったく、らしくもないことを言うじゃないか。天下の北斎、そうやすやすとくたばるもんかね。だって、まだ描きたい絵がいっぱいあるんだろ?」
「おうともよ。オイラな、まだ……お栄、筆は……筆はどこだ」
「ほら。筆はここにあるよ。しっかりおしっ」
お栄が北斎の掌に絵筆を握らせたときであった。
北斎の腕からがくりと力が抜けた。
その瞬間、お栄の息は詰まり、どんな言葉も口から出てこなかった。横たわる北斎のそばで呆けたような顔で座り込むこと四半刻(三十分)余り、明け方の光が白々と破れ畳に射してきた。
つと、お栄の口から独り言が洩れ出た。
「やり終えた。わたいはやり終えた。おっ母さん、わたいを
虚空に向けて、北斎の眼が大きく見ひらかれている。しかし、その森羅万象を写し取ろうとした眼はもはや何も映すことがない。
お栄は北斎の死顔に声をかけた。
「お父っつあん。さすが小林平八郎の
次に、北斎の虚ろに開いた眼を閉じさせようと、その瞼に指の先をそっと伸ばした。すると、閉じた目尻から一滴の雫が零れ出て、頬に流れた。
お栄は北斎の亡骸に覆いかぶさるようにして、その涙の雫を口で啜った。
「あばえ、お父っつあん」
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