第97話 富士越龍図―其ノ弐

 父親の北斎の凄まじい筆力を目の当たりにして、お栄は「やはり、お父っつあんはすげえ画工えかきなんだ」と、改めて思い知り、同じ絵師としての魂が揺さぶられていた。

 そうしたお栄の胸のたかぶりをよそに、北斎は「富士越龍図」を筆の勢いのままに描き上げた後、放心したような表情かおをしてポツリと言葉を洩らした。

「ああ、腹ァ、へった。慈姑くわいが食べてえ」

「あいよ、お父っつあん。ちょい待っときな」

 お栄は下駄を突っかけ、興奮さめやらぬまま聖天しょうでん横町へと走った。そこにある煮売屋なら、松明まつあけ早々、暖簾のれんを出していたはずだ。

 雪でぬかるんだ路地を抜けながら、お栄は、

「あのぶんなら、お父っつあんは今年一年や二年、いや五年先まできっと大丈夫だ。閻魔さまとはお近づきになるのは、まだまだ先さね」

 と、つぶやき、心の底から安堵した。

 なぜか、目頭が熱くなり、雲間から陽が淡く零れる落ちる空を見あげた。

 ――馬琴さんの亡霊なんかに、おいでおいでと誘われてたまるもんかい。

 が、この世は一寸先は闇である。

 お栄が安堵の念を抱いたこの数日後のこと、北斎がにわかに病の床に臥したのだ。

 翌月如月の半ばを過ぎても、床上げできない。というよりも、病状は徐々に進行しているように思えた。

 馬琴の義理の娘であるおみちが、同年二月二十五日の日記に「画工北斎、此のせつ大病のよし」と書き留めている。

 三月も過ぎると、噂を聞きつけた門人や旧友、板元らが続々と見舞いに訪れた。

 北斎はゴホンゴホンと咳込みながらも、気丈に振舞う。

「なァに、風邪がちょいと長引いているだけのことよ。すぐ治るわさ」

「そうだよ。絶対にすぐ治るよ」

 お栄は北斎を励ましながら看病をつづけたが、日を追って北斎の眼からは生気が失われていた。

 灌仏会かんぶつえ(四月八日の花祭り)が近づいたある日、医師の玄庵がお栄に告げた。

「これは高齢ゆえの老病(老衰)にて、もはや医の為すすべはござらぬ」

 そのさじを投げたような言葉を聞いた瞬間、

「このやぶ。見放すってのかい!」

 と、お栄の口から反射的に悪態が吐いて出た。

 自分自身でも信じられないようなひどい言葉であった。

 玄庵がそそくさと帰った後、お栄は土間にうずくまってむせび泣いた。どうしようもない感情に押し潰されてしまいそうな、やり場のない気持ちが胸のうちで激しく渦巻いていた。

 ひとしきり泣いた後、お栄は「わたいは諦めないよ」と言って、眉をきりりと持ち上げた。

 その日から、お栄の寝食を忘れたかのような懸命の介抱がはじまった。

 人はすべて老い、いずれ死ぬ。

 それが不可避の宿命さだめと頭ではわかっていても、お栄は北斎に限っては別、うちの親父どのだけは死ぬわけないという思いが、心のどこかにあった。

 熱に浮かされた北斎が譫言うわごとを洩らす。

「もう十年、いや五年でよい。もう少し頑張れば、真正まことの画工になれるんだ。本物の生きた絵が描けるんだ」

「大丈夫だよ。お父っつあん。わたいがついてる。必ず治してみせる」

 お栄は心に固く誓った。

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