第95話 馬琴の亡魂―其ノ伍

 即答を迫る馬琴に対して、北斎がおうとうなずき、夢の中で絵筆に手を伸ばした。

「狐狸図が気に入らねェんなら、極上上吉の雄々しい絵を描いてやろうじゃァねえか。お栄、絵絹だ。胡粉ごふんを用意しろ。墨をれ」

 炬燵で睡っているはずの北斎に名前を呼ばれて、お栄はびくっと反応した。

 いままで寝入っていたとは到底思えない、はきとした声音である。

「お父っつあん、起きたのかえ」

 お栄の問いかけに、北斎が炬燵からむくりと起き上がり、深いしわの中に落ち窪んだ眼を手でこすった。

「ふん。瑣吉があの世から出てきやがった」

「えっ、馬琴さんのどんな夢を見たってェんだね?」

 北斎はそれに応えず、大きな欠伸あくびをして、

「お栄、筆だ。それに絵絹だ、墨だ、胡粉だ」

 その畳みかけるような言葉に、お栄は筆架ひっかに吊るしてあった面相筆と彩色筆を北斎に手早く渡し、木枠にピンと張った絵絹や絵具を北斎の前に置いた。

 北斎が絵絹の前で筆を口にくわえ、腕組みをして沈思している。絵の主題や構図を考えているのだ。

 その横でお栄があわてて墨を磨る。

 思案がまとまった北斎は筆を一気呵成に走らせた。

 北斎が描いたのは、双幅の「龍虎図りゅうこず」であった。

 黒雲の中に躍り出て烈しい雨を降らせる龍図。その雨の下で龍を睨み上げ、咆哮する虎図。それは、阿吽あうんの勇壮な一対になっていた。

 すなわち、口を大きく開けて荒ぶる阿形あぎょうの「虎図」は馬琴であり、片や天空に舞う吽形うんぎょうの「龍図」は辰年生まれの北斎自身というわけである。

 「狐狸図」で描いた狐の馬琴と、狸の北斎とは大違いの勇壮さであった。

 ――瑣吉、これでどうだ。オメエ、この絵を閻魔への手土産にして、極楽浄土への道中手形をもらって往生しな。もう金輪際、枕元にふらふら迷い出て来るんじゃねえ。ったく迷惑ってもんだぜ。

 北斎は、長屋のシミだらけの天井をはすに睨んで、胸のうちでかつての喧嘩仲間に語りかけた。

 絵の構想が次々に湧き出るのか、その後も北斎の筆は止まらない。老骨に鞭打って、あたかも忘我のきょうるかのような画狂ぶりであった。

「お父っつあん、大丈夫かえ。くわばら、くわばら年寄りの冷や水。少しやすむがいいよ」

 お栄のいたわりの言葉も耳に入ることなく、北斎の筆はひたすら走る。

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