第94話 馬琴の亡魂―其ノ肆

 一方、注文をつけられた側の北斎も生ぬるい男ではない。かつての喧嘩仲間に意地の悪いところを垣間見せた。

「おう、描いてもいいわさ。だがな、画料おあしはどうするんだ。オイラは一介の紙屑絵師とはいえ、無料ただでは描かぬぞ。もっともお足どころか、ふたつの足すら揃ってねェ、幽霊のオメエじゃァ、どだい無理な話よな」

「てっ、鉄蔵。このわしを嬲る気か」

 馬琴が血相を変えて、癇走かんばしった声をあげた。

 それを見て、北斎が口の端を曲げて、ニヤリと笑う。

「ま、画料はいいってことよ。オメエには借りがあるしな」

「ん?」

 北斎の言う「借り」とは、これまた古い話になる。

 文化二年(一八〇五)の暮れから翌年の夏頃にかけて、北斎は飯田町中坂下なかざかしたの馬琴宅に寄寓し、読本を共作していた。

 馬琴との同居が始まってまもなくのこと――。

 北斎は馬琴に声をかけた。

「オイラが養子入りしていた本所の中島家で、年忌ねんきがあるもんで、ちょいと顔を出してきやすぜ」

 すると、義理堅い馬琴が、半紙に包んだものを差し出した。

「些少ながら、これを御仏前に」

 その後、北斎はかつての養家へと向かう道すがら、懐におさめた半紙の包みを開けてみた。途端、目の色が変わった。線香代として二朱金が二枚も入っていたのだ。

 直後、北斎の足は、本所ではなく料亭が軒を並べる柳橋通りへと向かった。

 ――これだけの銭があれば、鰻も天麩羅も寿司も食える。窮屈な法要なんぞに出るより、旨いものを食べたほうがなんぼかマシだ。

 北斎は馬琴の妻のお百がこさえる猫飯ねこまんまのような粗末な飯にうんざりしていた。

 数刻後、北斎が飯田町へ帰ると、馬琴は文机ふづくえの前に正座して筆を執っていた。背筋をピンと伸ばしたいつもどおりの端然たる姿勢である。

 北斎は挿絵の下絵に取りかかる前に、たもとの紙で何気なくはなをかみ、それをぽいと脇へほうり棄てた。

 しかし、それは、馬琴の志が包まれていた半紙であった。

 馬琴の目が、畳の上に落ちた白い半紙に走った。

 次の瞬間、

「鉄蔵。その半紙は……。年忌だなどと、わしをだましやがって。このでなし。嘘つき野郎め!」

 馬琴が癇癪玉を破裂させると同時に、北斎につかみかかった。あまりの勢いに、仰向けに倒れた北斎の上に、馬琴が馬乗りとなってビンタを一発。それからは、戯作者特有の理屈っぽさ、語彙力が唾を飛ばす勢いで噴出した。

 相手をなじる、そしる、けなす言葉が、べらんめえ口調で矢継ぎ早に出る。

 このときばかりは、さしもの北斎も引け目を感じたのか、下手したてに出て神妙にしたことで大事には至らなかった。

 あれから五十年近い歳月が過ぎ去ったのだ。

 北斎が遥けき過去の一幕を語ると、馬琴もあの頃を懐かしむような目になった。

「ほう、借りとはそのことか。たしかに、そんなこともあったな。では、この際、昔の罪滅ぼしをしてもらおうか。冥途の土産になるような、勇ましい図を頼むぜ。おうか」

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