第93話 馬琴の亡魂―其ノ参

 ここで一言、読者に断っておくが、この江戸時代においては現代よりも性に対しておおらかで、遊廓の娼妓を妻にしても、市井に生きる庶民の間では特段どうということでもなかった。無論、そのことを世間に隠し立てしたり、後ろ指を指されるようなこともない――事実として、そういう時代であったということだ。

 が、しかし、馬琴は戯作者となっても、異常なほど武家の出ということにこだわり、遊女や亡八らを下賤な身分の者として蔑む階級観念を持ちつづけた。それは、京伝一家の稼業、質屋についても然りである。

 その馬琴が、死者たる京伝を鞭打つ。

「いまとなっては、あのような下賤な商売人の家に寄寓きぐうしていたことさえ深くじ入っておる」

 それまで黙って馬琴の言い分を聞いていた北斎が、かっと眼をき、「何をほざく!」と一喝した。

「ったく、いつまで経っても侍気分の抜けねェやつだ。情けねえ。その愚にもつかぬ誇りは、さっさとどぶにでもてたがいいぜ。オメエとも旧知の唐来参和とうらいさんなは、幕府高家こうけの家臣だった男だが、本所松井町の和泉屋という女郎屋に婿入りして、いい出来の戯作を書いたじゃァねえか。ひと頃、オメエの長ったらしい八犬伝の挿絵を描いた英泉も、根津で亡八をやったことがあらァな。オイラも女郎屋や亡八が格別いいとは思わねェが、人を蔑むのだけはやめな。それに戯作は刀で書けねえぜ」

 その北斎の科白に、馬琴が薄い唇を尖らせた。

「折角、会いに来てやったというに、なんて言い種だ」

「ふん。会いに来てくれと頼んだ覚えはないわさ。さっきから、つまらねェ御託ごたくばっかり並べやがって。用がねェんなら、もうけェれ。オイラは忙しないんだ」

「おっと、そうだ。用件を忘却しておった。わしは鉄蔵に頼みがあるんだよ」

「ふん、頼み事とは面倒な。気乗りはしねェが、昔のよしみで聞いてやらねェでもねえ。言ってみな」

「実はな……」

「いいから、さっさと言いな」

 北斎がじれったげに膝を揺する。

「わしがこの世を去った昨年霜月、鎮魂のためか、お前さんは狂言釣狐つりぎつねの絵を描いただろうが」

「ああ、狐狸図の片割れの絵だな。それがどうしたってんだ?」

「あの掛軸の図はいけねえ。あの絵の中の白蔵主はくぞうすは、わしに見立ててのことだろうが、この馬琴の姿があんな情けない狐の図で描かれては、冥界で笑い者になるのが関の山よ。ここは鎮西ちんぜい八郎為朝ためともの挿絵のごとく、もちっと勇壮な絵であの世へ送ってもらいたいもんだ」

 かつて北斎と馬琴は手を携え、四年がかりで『椿説遊弓張月ちんせつゆみはりづき』という大作を仕上げたということは前に述べた。これは為朝を主人公とする史伝読本で、馬琴はこの挿絵を非常に気に入っていた。

 そこで、どうせ鎮魂の絵を描くなら、為朝のような勇ましい絵を描いてもらいたいと、馬琴は注文をつけたのである。 

 あの世で見せびらかすつもりなのか、それとも閻魔えんまへの手土産にするつもりなのか。まさか死人から注文が出るとは、思いも寄らぬことであった。

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