第92話 馬琴の亡魂―其ノ弐

 馬琴より六歳年長で、懐の深い京伝は、弟子入りを願う馬琴を邪慳じゃけんに追い返すようなことはしなかった。

 どころか、馬琴の長談義につきあい、加えて馳走までしたという。

 挙句、

「じゃァ、これも縁だから、いつでも訪ねてきなせえ。友人として遇しやしょう」

 と、京橋の家に出入りをすることを許したのである。

 門人格として認められた馬琴は、それから一年後、深川の仮宅(長屋)を洪水で失う羽目となり、京伝の家に食客として転がり込んだ。このとき、京伝の母親や妻のお菊から、着る物、食べる物全般にわたって世話になった。

 馬琴が蔦屋重三郎の手代となり、戯作修行に励めたのも、京伝の世話によるものであった。蔦屋で奉公する傍ら、ある程度の戯作をものにできれば、世に出る糸口もつかめようと、京伝はおもんばかったのである。

 それほど世話になり、唯一無二の恩人ともいえる京伝に対して、馬琴は京伝死後の文政二年(一八一九)、匿名で著した『伊波伝毛乃記いわでものき』で、悪意にみちた侮言ぶげんを放っている。

 とりわけ、京伝の弟で戯作者でもあった京山きょうざんを口汚くののしり、嫌悪の念をあからさまに書きあらわした。

 そうしたすべての経緯を知る北斎が、夢の中で馬琴に嫌味を言う。

「ふふっ。伝蔵はオメエが三途の川を渡って来るのを、さぞかし手ぐすね引いて待っていたろうよ」

 馬琴が唇をひん曲げた。

「ふんっ、いたともさ。川の向こう岸から、にこにこと手をふっていやがった」

「おっかねえ。で、どうしたんだ?」

「無論、ぞっと肝を冷やし、その場にへたり込んだのよ。到底、すんなり渡し舟に乗れるわけがねェだろ」

「それで、彼岸あっちへ渡り損ねて、まだ此岸こっちでふらふら、うじうじと未練たらしく彷徨っているわけだ。どうしようもねェやつだな」

 この憎まれ口に、馬琴が思わず噛みつこうとしたが、それをさえぎるように北斎が容赦ない言葉を浴びせる。

「オメエは恩義のある京伝一家を足蹴あしげにしたんだ。あんな没義道もぎどうなことを書き連ねて、怨まれないほうが可笑おかしいってもんだ」

 たまらず、馬琴が大声を出す。

「このわしにだって、理由ってもんがあるんだ!」

「ほう、言い訳か。聞いてやらないでもない。言ってみな」

「その昔、京伝は蔦重つたじゅうと組んで、わしを女郎屋の養子にしようとはかったんだ。小身微禄とはいえ、これでも元は武士の身分。それがこともあろうに、忘八ぼうはち(女郎屋の亭主)なんぞに身を落とせようか。もっとも、女郎をめとったようなやからに、わしの心底は理解できまい」

 馬琴の言うとおり、京伝の最初の妻お菊は、吉原の大見世「扇屋おうぎや」の番頭新造ばんとうしんぞだった菊園きくぞのである。

 が、このお菊は病弱で、身請けしてから三年後に儚くなる。享年三十の若さであった。後添えとなったお百合も、吉原「玉屋」の振袖新造だったおんなで、源氏名を玉ノ井と称した。

 馬琴が口をきわめて毒を吐く。

「京伝は所詮、七つ屋(質屋)の道楽息子よ。女郎を落籍ひかして通人ぶってやがる。弟の京山たるや、それに輪をかけたようなごうつくばり、下衆げすのひねくれ野郎だ」

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