第91話 馬琴の亡魂―其ノ壱

 炬燵の中で、いつものように腕枕をして北斎は寝入っている。だが、単に睡りこけているのではない。この画狂老人は、夢寐むびの間にも絵筆を握っていた。

 北斎の夢の中で、色とりどりの扇が舞う。

 ひい、ふう、みい、よ、いつ。数えて五本の扇が、はらはらと夢の中で舞う。

 炬燵の温もりに微睡まどろみつつ、北斎は夢裡むりで筆を走らせつづける。濃紺の扇の上に漢詩を書き連ね、さらにきんいた扇面には朝顔の絵を描いた。

 さらに、もう一本の扇に牡丹の花を描こうとしたとき、どこからか北斎を呼ぶ声がした。

「おいっ、鉄蔵……鉄蔵」

 どこかで聞いたような声だ。

 だが、北斎はそれを聞き捨てて、筆の先に朱を含ませ、扇面に牡丹の花びらを浮かびあがらせた。

 再び、聞き覚えのある声が、無視された腹いせに悪口あくたく。

「やいっ、鉄蔵。その絵はなんだ。扇面散図せんめんちらしずなんて洒落たつもりか。狩野派の絵師でもねェくせに、変な風趣に走るんじゃねえ」

「ええいっ、うるせえ。その粘ったような声は、オメエ、瑣吉だな」

 思わずムカッとして、北斎が顔を上げると、果たせるかな、かつての喧嘩仲間である馬琴が、目の前にちょこんと正座しているではないか。

 頬骨の突き出た仏頂面は相変わらずだが、顔がぞっとするほど土気色つちけいろだ。その全身から、何やら蛇穴へびあなにまぎれ込んだようななまぐさい臭いが漂う。

 北斎が夢の中で問う。

「オメエ、やけに気味きび悪い顔してるぜ。まだ成仏できずに、この世をふらふらしているのか。しつこい性格は死んでも治らねェってわけだ」

「ふん。成仏なぞしてたまるか。第一、極楽なんかは俗臭芬々ふんぷんたる戯作者にとって分不相応ぶんふそうおうよ。それに、わしにはまだやり残したことがあるんだ。例の美少年録よ」

 美少年録とは、馬琴が晩年に書いていた読本『近世説美少年録きんせせつびしょうねんろく』のことであるが、この本は当人の死により完結することなく終わっている。

 北斎が馬琴の愚痴をあざけった。

「ほう、なんとも未練なこった。まァ、せいぜい冥土あっちで書き上げることだな」

「ところが、冥界にはいい腕の挿絵描きがいねェんだ。そこで、お前さんをには一刻も早くこっちへ来てもらいたいと思っておるわけよ」

「けっ、そうはいくけえ。オイラが冥土へ行くのは、自分でも心底納得できる本物の絵を描いてからさね。それはそうと、冥土で伝蔵でんぞうとは会ったか」

 伝蔵とは、山東京伝のことである。

 質屋の息子である京伝は、二十二歳となった天明二年(一七八二)に出板した黄表紙『御存知商売物ごぞんじのしょうばいもの』が、当時第一級の文人であった蜀山人こと大田南畝なんぽに激賞され、これが出世作となる。

 その三年後、蔦屋から発市うりだした黄表紙『江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき』や洒落本『令子洞房むすこべや』が人気を呼び、売れっ子作家となった。

 深川の裏店に侘しく暮らしていた馬琴が、この京伝に酒一樽を手土産にして入門を乞うたのは、寛政二年(一七九〇)のことであった。

 いきなり現れた得体の知れない男に対して、京伝は言った。

「戯作なんざァ、テメエで書き方を覚えてゆくもので、別に習うほどのものじゃァ、ありやせんぜ」

 婉曲えんきょくな断りである。

 京伝には山東鶏告けいこう、山東唐洲とうしゅうといった門人がいたが、この頃の京伝は、もはやそれ以外の者を弟子にする気はなかった。

 馬琴が畳に頭を擦りつけるほど頭を低くして食い下がる。

「そこを是非ぜっぴに……先生の御門下にお加えを……人間ひとりを助けるとおぼし召して……これこのとおりお頼み申します」

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