第90話 魔除けの獅子―其ノ伍

 当日の機嫌の悪さに加え、多吉郎の堅苦しい挨拶もかんさわったのか、北斎が憎まれ口を叩いた。

「ふむ。独活うどの大木も、ここまで立派になりゃあ、坊主の頭で結う(言う)ことなしよ。見上げたもんだぜ、屋根屋のふんどしだ」

「そのありがたいお言葉は、父上さまにそのままお返しいたします。それにいわし百遍ひゃっぺん洗えば鯛になると、俗に申しますようで」

 さしもの多吉郎も下膨しもぶくれのおっとり顔をムッとさせて言い返すと、

「ほう、堅蔵かたぞうのオメエも、世間の波に洗われた末に、鯛に成り上がったとは、めでてェもんだ。独活は独活でも、オイラのような木偶でくの坊たァ違うってわけだ」

 と、北斎がさらにからむ。

「これは、これは……」

 多吉郎が困り顔になって、まげに手をやり、お栄のほうへ視線を移した。助け舟を求めているのだ。

 長煙管をくゆらし、黙って二人のやり取りを聞いていたお栄が割って入った。

「ちょいといいかえ、多吉郎」

「はい、姉上さま」

 多吉郎がホッとしたような声を出した。

「実は、近頃わたいは気になっていることがあるんだよ」

「と申されますと?」

「ほらっ。前に話した例のやくざな甥っ子のことなんだけどさ。あいつが顔を見せなくなって久しいんだよ。散々っぱら手を焼かされたものの、身内に変わりはない……」

 そのお栄の言葉をさえぎって、北斎が横から口を出す。

「あいつはうに勘当してるんだ。人別にんべつ(戸籍)も抜いてるんだ。もう身内なんかじゃァねえ」

 それに構わず、お栄はしれっとした顔で言葉をつづけた。

「こうも間が空くと、無事にいるんだろうか、おまんまは食べているんだろうか、いや、もしや……と、ときには胸騒ぎもするんだよ」

「何言ってやがる。あんなやつ、死ねばいいんだ」

 北斎がまたしても口をはさんだが、多吉郎も素知らぬ顔でお栄の相手をする。

「なるほど。承知いたしました。町奉行のほうに見知りの者がおりますので、まずはそちらから当たってみましょう」

「あい、おかたじけだよ。世話をかけて済まないねえ」

 多吉郎は「なんの、なんの」と、顔の前で手をふった。

 ――お栄の嫌な予感は当たっていた。

それから、ふた月近く経った頃、加瀬家の下男がやって来て、

「これは旦那さまからでごぜえやす」

 と、一通の書状ふみをお栄にもたらした。

 それが多吉郎からの手紙であることは言うまでもない。

 手紙には富之助とおぼしき無宿人が賭場で喧嘩沙汰に及んだ結果、捕縛され、その半月後には伝馬町てんまちょうの牢内で病死したとある。

 当時、伝馬町の牢獄は悲惨なものであった。

 かわやの悪臭がたちこめる窓もない牢内には、「作造さくづくり」という殺人も横行した。

 生意気である、鼾息いびきがうるさい、ツル(賄賂)の持ち込みが少ない――といった理由で簡単に殺されるのである。

 特に娑婆しゃばで嫌われていた岡っ引きや、その子分の下っ引きは真っ先に殺された。書くのをためらわれるようなむごい殺され方をするのであるが、牢役人からはなんの咎めもなく、すべて病死扱いとして処理され、両国回向院えこういんの無縁塚に機械的に葬られることになる。

 多吉郎からの手紙を読み終えたお栄は掌を合わせ、

「成仏しなよ。オン・ランモ・ソワカ……」

 と、心の中で宝篋院陀羅尼ほうきょういんだらにした。

 牢内で死んだという無宿人は、きっと富之助だ、あいつは死んでしまったのだと直感したのである。そうでなければ、金の無心に現れるはずではないか。

 以来、北斎は「日新除魔」を描かなくなった。

 その北斎が正月の膳を荒らした後、炬燵の中で鼾息いびきを掻いている。

 どんな夢を見ているのか、何かぶつぶつとつぶやきつつ、しきりに寝返りを打つ。

 ――今日は元旦吉日というに、また悪い夢を見ているんではなかろうね。

 何やら無性に気になって、お栄は耳をそばだてた。

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