第89話 魔除けの獅子―其ノ肆

 十八屋から届けられたおせちを腹に詰め込み、炬燵で横になった北斎の口から寝息が洩れてきた。

 次いで、口をもごもごとうごめかし、何やら寝言を言ったかと思うや、たちまち疲れからくる鼾息いびきを掻きながら昏々こんこんたる睡りに落ちた。

 時折、唇をふるわせて放つ鼾声かんせいに、お栄が苦笑する。

「ったく、齢を取ると寝てるか、食べてるか、絵を描いているか、の三つに一つだね。でも、いい正月だ。お父っつぁんもわたいも無病息災。なんとかつつがなく新年を迎えられた」

 そうつぶやいたお栄は、柱の上に釘付けされた蜜柑箱に向かって掌を合わせた。そこには日蓮上人の像が祀られてある。

「あのドラも無事でありますように。南無摩利支天まりしてんさま、オン・マリシェイ・ソワカ」

 北斎とお栄を散々悩ませた富之助は、どうしたわけか、ここ数年、姿を見せていなかった。「これも魔除けの獅子のおかげかね」という思いとは裏腹に、それはそれで妙に気になるのが血縁の情というものである。

 ――もしや大川に簀巻すまきでドボン?

 お栄は両国橋、新大橋などを渡る際には、橋の詰めにある橋番所はしばんしょ土左衛門どざえもんの有無を訊ねるのがいつしか常となっていた。

 自身番じしんばんや辻番所の前の立て札に張り出された人相書きはもちろん、辻斬りなどの事件を報じた瓦版にも目を通すようになっていた。

 検視中の同心や岡っ引きに「ちょいとごめんなさいよ」と断りを入れて、簀巻きの水死体の顔をこわごわ覗き込んだことも一度や二度ではない。が、富之助の安否はもとより、行方もようとして知れずであった。

 そうした某日あるひ、お栄の弟の多吉郎が長屋を訪ねてきた。

 前にも述べたが、この多吉郎は幼くして御家人加瀬氏に養子入りした北斎の次男で、元服後は崎十郎と名乗った。

 小柄な下男を従えた多吉郎は、いかにも役付やくづきの侍らしく羽織・袴姿の二本差し。しかも北斎同様、大柄なだけに堂々たる風采である。

 小身微禄の家格で支配勘定役にまで出世しただけあって、性格は篤実で物堅い。

 その手には菓子折りらしき風呂敷包み。おそらく本郷の屋敷近くにある幕府御用達の菓子店「壺屋つぼや」の最中であろう。多吉郎の手土産は、毎度、判で押したように壺屋の壺々最中という銘柄品であった。

 折り目正しく、畳に両手をついて多吉郎が挨拶の辞を述べた。

「父上さま、姉上さま、ご無沙汰でござります。お二方ふたかたともご健勝のご様子、何よりでござります」

 いかにも温厚そうな口調である。

 ところが、この日、北斎はたまたま虫の居所が悪かった。

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