第88話 魔除けの獅子―其ノ参

 富之助ことドラが、ねちねちと金をせびる声に、お栄がかんを立てた。

「そんな金、このボロ長屋のどこにあるってんだい。簀巻すまき、ああ、結構じゃないか。いっそのこと大川でドボンとお土左どざ(水死体)になりャあ、三途の川を渡る手間が省けるってもんさね」

 お栄の切った啖呵たんかに、強請ゆすりたかりに手慣れた小悪党が居直る。

「へんっ、三途の川を渡るにも渡し賃が要るのよ。おう、そうかい。首縊くびくくりの足を引っ張ろうってェ魂胆かい。そこまで薄情なら、いいってことよ。明日にもグルグルの簀巻きになって、大川に浮かんでやろうじゃねえか。寝覚めの悪いことになっても知らね……」

 その声を最後まで聞くことなく、お栄は部屋の隅へ走り寄り、長火鉢の引き出しを思い切りよく開けた。

 引き出しの奥には二両の紙包み。それは、高齢の父親のために、お栄が万が一を考えて備えておいたの金だ。

 お栄は紙包みを手で掴むや、ドラのいる土間に叩きつけるようにほうり投げた。 

 チャリンと小判のはじける音。

「渡し賃をはずんでやるから、とっとと消えな。十両には足りませんがと、地獄の一丁目で閻魔えんまに差し出して、せいぜいお慈悲を願うがいいや。もう二度と、その小汚いつらァ見せるんじゃないよ!」

 情けなさと怒りが入り混じり、お栄の唇がわなわなとふるえた。

 出来損ないのとはいえ、お栄が慕ったお美与ねえ息子せがれである。まして赤ん坊の頃にであやしたこともある甥っ子なのだ。富之助に対して、まるっきり情がないといえば嘘になる。

 しかし、お栄は心を鬼にせざるを得ない。

 このドラのおかげで、いまなお借金まれの暮らしなのだ。これっきりと肉親の情を断ち切り、縁を切らねば、老い先短い北斎の命をさらに縮めかねない。

 お栄は泣きの涙で対したつもりであったが、富之助はそのような気持ちが通じる手合いではなかった。

 逆に、て与えた二両が呼び水になったのか、しばらくしてまたぞろ下衆げすな顔を引っさげて金の無心に来るようになってしまったのだ。

 おちおち絵筆もとれぬ気分になった北斎は、知己を頼って、一時、江戸から十里ほど離れた三浦半島の浦賀に移り住んだこともある。

 天保という年月は、北斎にとって飢饉ききん、出板取り締まり、生涯初めての火難など二重三重の苦難が押し寄せた時代であった。

 北斎はこれらの災厄をはらうために、魔除けの獅子を描きはじめたのである。

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