第87話 魔除けの獅子―其ノ弐

 北斎は十八屋のおせちで腹がふくれていた。高齢のせいか、最晩年のこの頃は腹がくちくなると、すぐ炬燵に横になり、ひとねむりするのが習慣となっていた。

 お栄は腕枕をして、ごろりと横になった北斎の背中をちらっと横目で見て、心の中でつぶやいた。

「それにしても、ドラはどうしているんだろうね」

 お栄の言うドラとは、北斎の長女お美与と梁川重信との間に生まれた富之助のことをさす。

 北斎にとって初孫にあたる富之助は、幕府御用鏡師の中島家の養子となったものの、放蕩の末に勘当されたというお粗末なドラ息子であった。

 それだけならまだしも、父親の重信が天保三年(一八三二)に歿してからは、博打に明け暮れるというすさんだ生活を送った。

 鉄火場で負けがこみ、賭ける金がなくなれば、

「オレは天下の絵師北斎の孫なんだ。銭なんか北斎のじいさんがいくらでも融通してくれるんだ」

 と大口を叩き、借金してでも丁半を張った。

 そのため、北斎とお栄は、この富之助の尻拭しりぬぐいに追われることになる。

 ときには、幡随院ばんずいいん長兵衛のような顔役が付馬つけうまとしてやって来たこともあった。

 付馬とは、賭場とば遊興あそびの未払金を取り立てるために、客と一緒にその家までついて来る者のことをいう。

 孫の仕出かした不始末である。

 やむなく北斎は、富之助の借金を返済すべく、受けられる仕事はすべて引き受け、日夜絵筆をふるったが、それでも金利の高さに追いつかず、年々、その弁済額はかさむ一方であった。

 ついには借金のための借金を重ねるような羽目となり、結句、板元や門人らに頭を下げて多額の金を工面したこともある。

 富之助をなんとか立ち直らせ、堅気かたぎの暮らしをさせようと、料理上手な女と所帯を持たせ、煮売屋の店を開かせたこともある。

 しかしながら、こうした肉親の情は、すぐに水の泡となった。

 富之助は北斎の借金でこさえた煮売屋をあっという間に潰し、ある日、突然、姿をくらましたのだ。信じられないほどのであった。

 以来、北斎とお栄にとって、富之助の名前は禁句となり、呼び方も「ドラ」になったのである。

 そのドラが北斎の前に姿を現したのは、失踪してから一年後の師走のことであった。伸ばし放題の月代さかやきや無精髭から、荒れた生活ぶりがわかる。しかも、外は凍える寒さというに、あかじみた単衣ひとえの着物に細帯という尾羽打ち枯らした身形なりであった。

 賭場からまっすぐやって来たのであろう。

 長屋の土間に立ったドラは、

祖父じいちゃん、金が要るんだよう。どうしても今日中に返さなきゃならねえんだよ」

「十両ねえと簀巻すまきにされるんだよう。おねげェだから、頼むから、十両出してくんな」

 などと、近所の手前もはばからず、何度も繰り返し金をせびった。

 いかにも粘っこい感じの声である。

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