第86話 魔除けの獅子―其ノ壱

 桝一の酒をしこたま聞こし召したお栄は、その酔眼を北斎がさっき描いた「骸骨図」に向けた。

 すると灯籠を提げた女の骸骨が絵絹からするっと抜け出て、こちらにと向かって来るではないか。

「うわわ、おいでなすったよ」

 お栄の吃驚びっくりしたような声に、北斎が眉をひそめる。

「なんでえ、アゴ。一体いってェだれが来るってェんだ」

「がっ、骸骨が動いたんだよ」

「バッカ野郎。絵が動くわけ、ねえだろう。ったく、酔いやがって」

 お栄は再度、骸骨図に目を向け、まじまじとに見つめた。なるほど、動いていない。酔余の錯覚であったようだ。

 次の瞬間、お栄はくやしまぎれに、黒豆をつまんだ北斎に憎まれ口を叩いた。

「今日、めでたい正月というに、こんな気色きしょく悪い絵を描かなくてもいいじゃないか。くわばら、くわばら。たたられてもしらないからね」

「ふんっ。このオイラは化物絵ばけものえも散々っぱら描いてきたんだ。いまさら祟られたりするもんかい」

「おっ、そう出たか。ならば、毎日、飽きもせず、せっせと魔除まよけの獅子を描いているのは、どこのどなたさまでござんすかえ。ひとつ教えてほしいもんだ」

 魔除けの獅子とは、北斎が日課のように描いている「日新除魔にっしんじょま」のことである。

 北斎は晩年、「日を新たに魔を除く」という除魔の図、すなわち唐獅子や獅子舞の図を半紙に描きつづけた。

 お栄の揶揄からかいに、北斎が唇を歪めて反発した。

「おきゃあがれ。獅子の図は、魔除けなんかじゃねえ」

「おや、むりくりへそをひん曲げるのはおよしよ。では、訊くけどさ。どうして、毎度毎度、あの手この手と趣向を変えて唐獅子や獅子舞を描いているんだい」

「あっ、ありゃあ、小布施を行った折、門付けをしてまわる角兵衛かくべえ獅子を見かけたからよ。小さな兄妹が宙返りをして舞い踊る姿にかれたからよ。それで、これは面白えと、小布施で描きはじめたんだ。へん、魔除けなんかじゃねえわ」

「違うね。たしかに信濃でも毎日のように描いていたけど、描きはじめたのは小布施に発つ前からさ。そうそう、達磨横町だるまよこちょうの長屋を着のみ着のままに焼け出されて、はんノ木馬場に引っ越した頃からだよ。ふふっ、いささか酔ったとはいえ、ごまかされないからね」

 お栄の言うとおりであった。

 北斎が「日新除魔」を日々半紙はんしに描きはじめたのは、天保十年(一八三九)、つまりいまから十年前のことであった。

 八十歳を迎えた時分、北斎は生まれて初めて火災に遭い、本所達磨横町の長屋をお栄とともに焼け出された。このとき北斎はそれまでにめ込んだ古今の貴重な画図や粉本ふんぽん(絵手本)、写生帖などの一切を失った。

 北斎はあのときのことを思い出して、宙を睨んだ。

 不機嫌そうに押し黙った父親に、お栄が畳みかける。

「それに獅子を描くときに限って、オン・ボロン・ソワカと低声こごえで唱えているじゃないか。あれは、百鬼調伏ちょうぶく尊勝陀羅尼そんしょうだらにで、悪鬼外道をはらう呪文だってことぐらい、門前の小僧たるわたいには、習わぬお経さね」

「ちっ、くだらねェことを一々憶えてやがる。所詮、獅子の図なんて手遊てすさびで、そんなこたァ、お寺の色事いろごとよ。どう(堂)でもよいわさ。ったく、口の減らねえやつだ」

 憎々しげに悪態をついて、北斎がにわかに炬燵へといざり寄った。

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