第84話 祭り屋台の天井絵―其ノ壱

 お栄がの栗きんとんに箸をのばしながら言う。

「小布施はいいところだったねえ。春は一面の菜の花、秋には栗」

「ああ、オイラは房州、尾張、伊勢、紀州や伊豆、相模などあちこち旅したが、小布施ってとこはまた格別だァな。蕎麦も旨いし、人も善い」

「おまけに酒も旨い。滅法界、旅嫌いなはずのわたいでも、この桝一りたさに、もう一遍いっぺん、小布施詣でをしたくなるよ」

 お栄は合いの手を入れたあと、桝一の一升徳利を傾けた。

 酒で躰が温まってきたのか、袷の上に羽織っていた棒縞ぼうじまの綿入れ半纏はんてんをするりと肩から落とした。

 北斎が下戸の肴荒らしの手を止め、しゃがれ声を出す。

「そう言やァ、オメエが旅の草鞋わらじを初めて履いたのは、小布施だったな」

「そうだよ。それまで御府内ごふないを出たことがなかったんだ。合羽かっぱからげて三度笠は、小布施こっきりでござんすよ」

 お栄は桝一の酒をグイッと煽った後、しばし瞼を閉じた。

 薄く閉じた瞼の裏に、春の陽を浴びて黄金色に輝く菜の花畑がぽんやりと浮かんでくる――。

 はんノ木馬場の長屋にお栄を残して、小布施へと旅立った北斎は、翌天保十四年(一八四三)三月、江戸に戻ってきた。信濃の雪融けを待って、江戸への草鞋を履いたのである。

 十カ月ぶりに戻ってくるなり、北斎はお栄に告げた。

「アゴ、オメエも小布施に行ってもらうぜ」

「えっ、なんだえ。ずいぶんと藪から棒じゃないか」

「実はよ。あっちでべらぼうにせわしくなってきちまった。ここはどうしてもオメエのすけがなくちゃ乗り切れねえ」

「おやっ。鉄蔵が泣きを入れるなんて、珍しいことがあるもんだ。びっくり下谷したやの広徳寺だよ」

 北斎は小布施滞在中、鴻山からさまざまな依頼を受けていた。

 その主なところは、東町、上町かんまちの祭り屋台の天井絵、さらに再建した曹洞宗そうとうしゅう寺院(岩松院がんしょういん)の天井絵を描くことである。とりわけ岩松院の天井絵は、二十一畳敷きの大きさで、とても北斎一人の手に負える代物ではない。

 北斎がお栄をともなって小布施へと旅立ったのは、翌年の春であった。

 旅支度になぜ一年もかかったのかというと、江戸での仕事もあったし、なにより信濃では手に入らない絵具や絵筆などの道具一式を調えるのに時間を要したからである。

 無論、それらすべての調達資金や旅行費用は、すべて鴻山から出ていた。北斎がなんの前触れもなく押しかけた前回の乞食こつじき旅とは様変わりの旅であった。

 父娘おやこ二人は、松代まつしろ藩の定飛脚じょうびきゃく問屋であった十八屋の手引きによって、江戸から最短経路の大笹おおざさ街道を利用した。通常の北国ほっこく街道、谷街道を用いるより、一日早く小布施へ着く定飛脚ルートである。

 大笹街道ルートは、まず江戸から江戸川、利根川、烏川からすがわの舟運で上州倉賀野宿くらがのじゅくへと至る。

 倉賀野宿は、当時の『中山道宿村大概帳しゅくそんたいがいちょう』に「本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠三十二軒」と記されており、料理屋や遊廓もあるほどの活況を呈していた。

 当時、河川は物流の大動脈であった。倉賀野宿は、一日およそ百五十席艘も数える荷船の往来で栄えていたのである。

 この倉賀野からは陸路となる。

 中山道の高崎宿、大戸おおど通りの大戸宿を経由して大笹街道に入り、谷文晁ぶんちょうが描いた噴煙の浅間山を左手に望みつつ、難所の鳥居峠を越える。

 その後は、菅平すがだいらの中ノ沢茶屋などで一服し、仁礼にれい宿、須坂すざかを経て小布施に至るというものだ。

 鳥居峠を越えるとき、お栄は牛の背に乗った。

 無論、牛の背につけた大きな箱鞍はこぐらに乗用するのであるが、お栄はこれを面白がり、少女のようにキャッキャッと笑った。

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