第83話 門弟高井鴻山―其ノ参

 信濃への旅支度を調ととのえる北斎の胸に、鴻山こうざんから寄せられた書状の文面が響く。

「何かございましたときは、いつでも小布施へお越しくだされ。片田舎ゆえ、さしたる馳走もできませぬが、小布施は江戸から見れば風光絶佳ぜっかの別天地。かの唐詩にいう武陵桃源ぶりょうとうげんもかくやと思うばかりの地でございます」

 北斎のもとには、鴻山からのねんごろな来信が絶えなかったのである。

 鴻山は、小布施で造り酒屋「桝一ますいち」などを営む豪商であり、信濃きっての文化人であった。

 文政三年(一八二〇)、十五歳で京都に遊学し、摩島ましま松南しょうなんに儒学、岸駒がんくに絵画、貫名ぬきな海屋かいおくに書、梁川やながわ星巌せいがんに漢詩、城戸きど千楯ちたてに国学・和歌を学ぶ。師はいずれも当代一流の人物である。

 天保三年(一八三二)、二十七歳の齢に、星巌にしたがって江戸に出た鴻山は、陽明学の佐藤一斎の門に入り、勤王の志士佐久間象山しょうざんや多彩な文人墨客ぼっかくと交流を深めた。

 そのようなこともあってか、鴻山自身、商人というよりは学者風の知的な風貌を持つ。

 天保七年の大飢饉の際には小布施に帰郷し、窮民のために米蔵を開けて救済に尽力した。同年、大坂で窮民救済の乱を起こした大塩平八郎とも交誼があったという。

 北斎と面識を持つに至ったのは、鴻山が江戸にいた頃である。

 飯島虚心きょしんは『葛飾北斎伝』の中で、「岸駒一日門生を集めて、いて曰く、当時京阪の画工多しといへども、けだし我が腕に敵するものなかるべし。ただおそるべきは、江戸の葛飾北斎なりと。三九郎これを聞き、岸駒が門を去りて、江戸に来り、北斎翁に就き、画法を学ぶ」と述べている。

 また『高井鴻山小伝』によると、鴻山は「江戸に着くや知名の画家を訪ひ、書画屋の店舗あさりたること推想すいそうに難からず。やがて当代の巨擘きょはく北斎と相識あいしり相許すに至れること、これまた推想に難からざるなり」とある。

 いずれにせよ、鴻山は江戸遊学中、みずからの意志で北斎との接触を試みたのであろう。その仲介をなしたのは、鴻山と同郷の豪商であり、北斎とも親交のあった十八屋の当主小山文右衛門といわれている。

 この鴻山の招きに応じる形で、北斎は善光寺参りを名目にして江戸を離れた。

 小布施までの距離は片道約六十里(約二四〇キロ)。普通の人の足で五泊六日か、それ以上の旅になるという。

 思うがままに絵を描きたい――その一心で、北信濃への険阻な道を、この当時八十三歳であった北斎が一歩一歩辿たどったのだ。まさに老いの一念。画狂老人たる北斎の胸中、思うべしである。

 北斎が高井家の門前に立ったとき、その姿は印半纏しるしばんてん麻裏あさうら草履、長い杖をつき、一見むさくるしい職人風であったという。

 土埃ほこりと汗にまみれたなりの、さながら乞食こつじき坊主のような奇怪きっかいな老人が、なんの前触れもなく突然現れたのだ。高井家の使用人はいぶかしげな表情を浮かべながらも、「しばらく、しばらく、そこでお待ちくだされ」と、急ぎ当主の鴻山に注進に及んだ。

 門前に出迎えた鴻山は、まさしく北斎であることにおどろきつつ、手を取らんばかりに喜び、広い屋敷の奥へと導いた。

 前にも述べたと思うが、天保十三年(一八四二)の、残暑厳しい初秋のことであった。

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