第78話 小布施十八屋―其ノ壱

「えっ、だれだろうね」

 お栄はあわてて土間の下駄をつっかけ、表の油障子を開けた。

 雪の湿気をはらんだ重い冷気が、長屋の土間に這うように流れ込み、座敷にひんやりと押し寄せてくる。

 北斎は、木枠にぴんと張った絹布けんぷに筆を走らせている。綿のはみ出した炬燵布団を肩から引っかぶって屈みこんだ、いつもどおりの恰好である。

 その筆にいささかのよどみもない。礬水どうさを引いた絵絹の右肩に、すっと丸い描線を入れるや、たちまち銀色の満月が浮かびあがった。すすっと描かれた竹笹が月の光に照らされ、藍色の輝きを見せる。

 筆を走らせる北斎の耳に、お栄とお店者たなものらしい男の話し声が聞こえてきた。

「これは、へえ、年賀のご挨拶代わりで。旦那さまがくれぐれもよろしくと」

「それは、まァ、ご丁寧に。いつもすみませんねえ」

 ややあって、若い男がぺこっと腰を屈め、

「どうも失礼いたしやす。十八屋の番頭、忠兵衛にござります」

 と名乗りつつ、土間に入ってきた。

 十八屋とは、信州小布施おぶせの豪商の屋号である。小布施の本店以外にも、江戸は日本橋本銀町ほんしろがねちょう二丁目に出店(支店)を構え、呉服や漢方薬、飛脚便などを手広く商っていた。

 この十八屋の当主である小山文右衛門ぶんえもんと親しい北斎は、手許不如意てもとふにょいの折、おのれの絵と引き換えに金子きんすを用立ててもらうことがしばしばであった。十八屋に所蔵され、後世に伝わることになった「雲龍図」「和漢山競図」は、そういった作品である。

 北斎は、十八屋の番頭にちらりと一瞥をくれた。ただそれだけで愛想ひとつなく、口をへの字に結んで、すぐ絵絹の上に視線を戻した。

 絵に専念する北斎を前にして、番頭は気後きおくれしたように年賀の辞を小さな声でと述べた。

 そのとき、絵絹の上には灯籠を提げた骸骨の図が描き出されようとしていた。

 北斎は筋骨の仕組みに詳しい。

 というのも、北斎は馬琴と共に仕事をしていた四十代の末頃、千住の接骨家名倉なぐら弥治兵衛やじべえ直賢なおかた)に弟子入りして、人体の構造を学んだことがあるのだ。

 番頭の忠兵衛は、肩に担いだ風呂敷包みを上がりかまちにおろした。柳行李やなぎごおりを包んだ風呂敷の結びをほどきながら、忠兵衛は画工の様子をちらっと盗み見た。

 北斎は骸骨の図を描いている。接骨術を学んだ北斎の筆が、生き物のように動き、筆を含んだ穂先が跳ねる。

 次の瞬間。

 忠兵衛の顔から血の気が引いた。

 なんと、北斎の屈めた背中に、一体の骸骨がのしかかるように取りき、肩口の上から、その絵を一心に覗き込んでいるではないか――。

「うっ、うううっ」

 忠兵衛は声にならない声をあげるや、土間から一目散にまろび出た。戸口にいたお栄とぶつかりそうな勢いであった。

「なんだい、あぶないじゃないか」

 お栄が呆れたように、遠ざかるお店者のうしろ姿を見送った。

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