第77話 散り椿の図―其ノ参

 あの日、植木店うえきだな長屋から来たという若い衆は、英泉の弟子の英春と名乗り、眉間に皺を寄せて「今朝、お師匠が歿くなりやして」と、やや口ごもりながら告げた。

 寝耳に水の訃報であった。

 それを聞いた途端、親父どのの筆の動きが止まり、わたいは「えっ、なんで。急にどうしてだえ」と引きったような声をあげていた。

「このところ心の臓が弱っていたようで……へえ」

 英泉の弟子は、お通夜などの日取りも述べていたと思うが、その声がやたらに遠く感じて、おかしなことにぼんやりとしか耳に入ってこなかった。

 わたいの頭は一気にもやがかかったようになり、身も心も白いおぼろの中をふらふらと彷徨い歩いた。

 ただ憶えているのは、それから二、三日、わたいはなぜか椿の絵ばかりを描いていたことだ。

 それも咲き誇る椿ではなく、散り椿。

 地上にこぼれ落ち、朽ちてゆく朱の花、あけの花。

 白首好きのあいつが抱いたお女郎の血の色、紅い唇の色だ。

 淫斎いんさい、淫乱斎、淫斎白水はくすい、淫斎泉、白水主人、千代田淫乱、壽氣人すきひと女好にょこう、女好軒、好色山人、好色斎、陽起散人ゆきさんじん……そして、親父どのから譲り受けた紫色雁高ししきがんこう

 わたいは英泉の数多い隠号いんごうをお経のようにつぶやきながら、散り椿の図を何枚も何枚も描きつづけた。それは、わたいなりの手向けの花だったのかもしれない。

 炬燵で北斎が、またしてもずずっと出涸らしの茶をすする。

 一服して寝惚け眼が開いたのか、北斎がしゃきっとした声を出した。

「さて、くとするか」

「えっ、元旦早々、仕事に取りかかるのかい」

「当たりめえだ。絵師には盆も正月もねェんだ。年明け早々、間抜け面をさらして、何言ってやがる。ぼんやりすんじゃァねえ。いつもの絵絹はどうした、墨をれ」

 お栄はあわてて画材を調えはじめた。

 雲間からこぼれ出た朝の陽が、溝板どぶいた通りに積もった雪に反射して、油障子を白々しらじらと照らしている。どうやら雪は止んだようだ。

 早速、宝船売りのふれ声が外から響いてきた。

「宝船ェー、おたからァー」

 正月二日の夜に見る夢を初夢という。

 宝船が売り歩く絵には、宝船に乗った七福神の図が描かれている。これを枕の下に敷いて睡ると、いい初夢が見られるという縁起物だ。

「おたからァー、おたから!」

 宝船売りが一段と景気よく声を張りあげ、遠ざかる。

 はて、さて、貧乏長屋で見る吉夢とはどんなものだろうね、とお栄は口のを歪めて苦笑した。

「お父っつあん、また手遊てすさびに芥子けし人形でもこさえてみようかね」

 絵筆を動かしている北斎からは、なんの返答もない。

 芥子人形とは豆人形ともいう。もっぱら女児の雛飾りとして愛玩される木彫りの衣装人形だ。

 かつてお栄は、この人形を作って、本人も吃驚びっくりするほどの大枚たいまいを得たことがある。ちょいと新しい工夫をしたりして、やりようによっては、再びたんまり稼げるかもしれない――という考えがお栄の頭をかすめたときであった。

 長屋の油障子を遠慮がちに叩く音がし、おとないを入れる男の声がした。

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