第76話 散り椿の図―其ノ弐

 急須の中に目を遣れば、出涸らしの茶葉が底にこびりついていた。

「えっ、いつのお茶っなんだろう。かびは生えてないけど、これじゃまずいかもねえ」

 お栄は一瞬、白湯さゆにするかと迷ったが、ええいっ、ままよと、手を袖口でくるんとくるんで鉄瓶を持ち上げ、たぎりきった熱湯を急須の中に注いでみた。すると、かすかではあるが、湯呑の中に淡い黄蘖きはだの色がにじみ出た。

 ――ま、何事もなんとかなるもんだ。

 お栄は猫舌の父親のために、頃合いを見計らって「あいよっ」と手渡した。

 湯呑の肌にいつもの温茶の手触りを感じつつ、北斎は薄い色がついただけの、二番煎じやら三番煎じやらとんとわからぬ茶を口をすぼめてすすった。

 ずずっと音が立つ。

 一服してから、北斎がぽつりと言う。

「去年の正月は、弟子どもがこんな狭い陋屋ぼろやに押し寄せてきたが、この雪じゃァな……」

「でもさ、たまには静かな正月もいいよ」

「この前、初五郎(北渓)が顔を見せた日、オメエは瑣吉さきち(馬琴)の弔いに行ってたらしいな」

「なんだ。知ってたのかえ。ああ、お父っつあんの分まで拝んできたよ。でも、だれから聞いたのさ」

「ふん、オメエと同じく瑣吉の葬儀に出た五渡亭(国貞)からよ。あいつは、馬琴の挿絵を描いて付き合いがあったから、いろいろ義理があらァな」

「なこと言えば、うちだって昔からの義理があらァな」

「へえーっ、それじゃオメエ、善次郎の弔いにはなぜ行かなかったんだ」

 お栄は返答に窮して、口をつぐんだ。

 そして、胸のうちで、

「どうもこうもあるもんか。瑣吉の死顔なんぞ見たくねえとひねくれて、滝沢家の葬儀に出なかったのは、どこのどいつなんだよ、ああ、だ、嫌だ。似た者親子どうしで泣けてくるよ」と、毒づいた。

 お栄は湯呑み茶碗に残っていた茯苓酒をグイッと干した。

 ほろ苦い味が舌に残った。

「わたいだって、善さんの死顔なんて見たくもない。あのお馬鹿が死んだなんて、金輪際、認めるもんか。本当に好きだった人の死顔に向かって、なんと言えばいいのさ。それは、お父っつあんがわかっているはずじゃないか」

 酒色と枕絵に明け暮れた英泉が、その生涯を閉じたのは、前年の七月十二日のことだった――。

 その日は朝から異常な暑さだった。文机ふづくえの前に座っているだけで、胸のあわいから汗が滴り、単衣ひとえの着物をしとど濡らした。

 当時、英泉は日本橋坂本町の長屋で暮らしていた。その二丁目にある植木店うえきだなから、訃報が届いたのは、すべてをあぶり焦がすような火の玉の太陽が、西の空を血の色に染めて落ちた頃だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る