第75話 散り椿の図―其ノ壱

 ふと喉の乾きとともに、胸が締めつけられるような息苦しさを覚え、北斎の意識は半ば目覚めた。

 何やら酒臭い。しかも、生温かい息がおのれの顔にまとわりつく。

 北斎は重い瞼をゆっくりと開けた。

 すると、お栄のえらの張った顔が、かぶさるような形で北斎の顔を覗き込んでいた。

 お栄が心配げな声を出す。

「大丈夫かい、お父っつあん。息遣いが荒くなって、時折うなされていたもんだから、起こすか起こさまいか、気がもめたよ。悪い夢でも見たんじゃないのかえ」

 北斎はそれに応えず、無精髭だらけの顔を両の手でごしごしこすった。あやうく黄泉よみの国へ誘われて、ふらふらと旅立つところであった。

「いま何刻なんどきだ」

 父親のしゃがれ声に、お栄が愛用の湯呑み茶碗を長火鉢の猫板ねこいたの上に置く。

「かれこれ五ツ半(午前九時頃)ってとこさ。外が明るくなってきたから、この大雪も間もなく降りやむだろうよ」

「アゴ、茶ァ、れっつくんな。オメエ、朝っぱらから、もうってるのか。酒臭いぜ」

 北斎のその声がなじるように聞こえたのか、お栄は父親の名前を呼び捨てにして言い返した。

「鉄蔵。ったく、年の初日からなんていう言いざまだよ。いいかえ。今日は世間じゃ松と竹を立てる元日とやらだ。江戸っ子なら、だれだって清めの一杯というもんさね」

「それはいいとしても、ちょいと変な匂いもするぜ」

「ふふっ、茯苓ぶくりょうさ。お父っつあんは龍眼酒、わたいは茯苓酒ってェわけさね」

 茯苓とは、松塊まつほどという茸の菌核を乾燥させた漢方薬である。

 北斎が、厄除長寿といった現世利益りやくの色濃い法華経に帰依きえし、さらに神仙思想を源流とする道教に傾倒していることはすでに述べた。仙人同様の長命を得て画道の神髄を究め、神妙の域に達することが北斎のめざすところであった。

 お栄もこうした父親の影響を受け、茯苓という漢方薬を霊薬、仙薬として服用することにしたのである。

「わたは、今年から女仙人をめざすんだ」

「ま、女仙じょせんくらいならまだしも、そのご面相では天女にゃなれねえぜ」

「へんっ」

 さて――。

 茶を淹れるにしても、常なら近くの煮売屋、一膳飯屋めしやなどに駆けこんで、「茶ァ!」と、小僧に汚い土瓶を突き出すところだが、生憎、今日は元日でどの見世も暖簾のれんを出していない。

「やれやれ、正月は不便だねえ」

 渋々、お栄は自分の手で茶を淹れることにした。

 長火鉢では算玉あられの鉄瓶がしゅんしゅんと白い湯気を立てている。その前に屈み、引き出しの中から茶筒を取り出した。

 茶筒の蓋をぽんと開けてみると、

「ん?」

 親父どのが好む安物の茶葉がひとかけらもないではないか。

 さて、どうしたものかとお栄は考えた。

 北斎にちらりと視線をくれると、まだ炬燵の中で寝惚け眼をぼんやり天井に向けている。

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