第74話 黄泉からの声―其ノ参

 幕府御用鏡師の家を出た後は、とりあえず貸本屋の丁稚でっちとなった。それから、錦絵の彫師のところで修行もした。辛い目にもいろいろあったが、もはや昔のことよ。

 どこか遠くから、オイラを呼ぶ声がする。

「時っ、時太郎」

 ――おっ母さんだ。

「時太郎、おっ母さんが死んじまったばかりに、お前に要らぬ苦労をさせちまったねえ」

 おっ母さんがさびしげに頬笑む。その面輪おもわがはかなげに霞んでいる。

「いいんだよ、おっ母さん。オイラ、平気の平左さ」

「でもね……」

「うん」

「こっちへ来たかったら、いつでも来な。今度こそ、お前を離さないよ」

 あの日と同じ、降りしきる雪のとばりの中に、母のうしろ姿が遠ざかり、消えてゆく。足元から細るように消えてゆく。

「待っておくれよう、おっ母さん!」

 その声に、おっ母さんが振り向いた気がした。

「おいて行かないでおくれよう。独りぼっちにしないでおくれよう」

 オイラはあの日のように泣き叫び、必死で追いすがった――ような気もするのだが……。

阿檀地あたんだい……檀陀婆地たんだばーちィ……檀陀婆帝たんだばーてィ……」

 夢の中の雪景色が、突如、春疾風はるはやてに一掃された。

 満開の桜の花びらが、夢幻のごとくほろほろと散る。無数の薄紅色の花びらが、花筏はないかだとなって、蒼穹そらにぐるぐると舞い上がっていく。

 ――龍だ。桜の花びらの龍だ。

 ぽかんと口を開けて見蕩れていると、直後、目の前が一寸も見えぬ闇となった。湿気と温気うんきはらんだ艶めかしい風が、鬢のほつれ毛を嬲る。

 四囲にあやかしの気が満ちた。

 刹那、闇夜に銀色の満月が浮かぶ。

 向こうの竹藪たけやぶの笹の葉が風にこすれる。

 そのとき――。

 月の端に叢雲むらくもがかかり、竹藪の暗がりにぽっと人魂ひとだまのような灯。

檀陀鳩賖隷たんだくしゃーれ……檀陀修陀隷たんだすーだれ……」

 群竹むらたけの中から灯火が浮かびあがり、こちらにふわふわと向かってくる。だれだ。こんな夜更けに何用だ。

 暗がりの先に目を凝らせば、すらりとした一人の女が灯籠を提げて姿を現した。

 黒髪を背に垂らした洗い髪の女だ。流水柄の単衣ひとえを抜き加減に着付け、白っぽい夏帯を締めた乙粋な女が、カランコロンと駒下駄の音を鳴らしながら近寄ってくる。

 灯籠の灯が揺らめく。

 女の顔が灯に浮かびあがる。

 その形のいい朱唇くちびるの右端に、忘れもしない婀娜黒子ぼくろ

「おっ、お辰っ!」

 お辰が艶治えんやな笑みを洩らす。

「ふふっ。時ちゃん、久しぶりだねえ」

「なつかしいぜ、うれしいぜ。オメエ、オイラを迎えに来てくれたのかい」

「そうさ。あたしは待ちくたびれちまってさ」

「待っていてくれたのか。ありがとうよ。だがよ、もちっとだけ、この世でりてェことがあるんだ」

「ふふっ。相変わらず、野暮だねえ。ほらほら、涙声になっちまってるよ」

 次の瞬間、お辰は「ふうーっ」と溜息とも吐息ともつかぬ長息を残し、虚空に消え去った。

「お辰っ!」

 無数の桜の花びらが天空から舞い散る。

修陀隷すだーれ……修陀羅婆底すだーらばてィ……仏駄波羶禰ぶっだはせんね……」

 北斎は再び深い睡りに落ちた。

 その枕元には、骸骨のお辰が寄り添っていた。

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