第73話 黄泉からの声―其ノ弐

 中島家の屋敷は、どうした因縁か、曾祖父が討死にした吉良きら邸の跡地にあった。そこでは、幕府御用鏡師の叔父の下で幾人もの下働き職人が働いていた。

 鏡背きょうはいはさまざまな吉祥文様で彩られ、鏡面はピカピカに磨きあげられている。それらは、すべて江戸城の大奥へと納める豪華な鏡だ。

 小僧のオイラは、現場の職人たちにまじって働いた。跡取り養子とはいえ、まずは下働きをして、全行程の技術を身に叩き込むという寸法だ。

 気の短い職人たちに、ちょっとしたことでどやしつけられ、ときには小突かれながら追い廻されて、一年も経った頃、勝手がわかってきた。

 有体ありていに言えば、鏡師の仕事は、毎日同じことの繰り返しで、オイラにはまるっきりつまらなかった。

 作業は公儀御用だけに何事も慣例しきたりどおりだ。

 まず銅とすずで鏡の原型を鋳出す。その表面をやすりせんで削り、砥石での石砥ぎを行う。さらに朴炭ほおずみや駿河炭などでの炭砥ぎが終われば、最終段階として水銀砥ぎというお定まりの手順をたどる。

 鏡背の吉祥文様だって、高砂、鴛鴦えんおう、福寿、鶴亀、蓬莱図やらで千遍一律の型どおり。てんで面白味がない。 

 明日も、翌月も、そして来年もまた同じようなことを、ここで繰り返しているのかと思うと、小僧ながら溜息が出た。

 溜息が出れば、気晴らしもせざるを得ない。

 炭砥ぎ台の上に零れた砥ぎ粉の上に、指で犬、猫、鳥なんぞの絵をちょちょいのちょいと描いて、気をまぎらわすのが癖のようになった。

 屋敷の白壁に朴炭で力士絵や武者絵を落書きして、叔父の中島伊勢にぶん殴られたこともある。

 そうしたある日、オイラが屋敷のはばかりで用を足していると、庭先から口さがない職人たちの駄弁だべりが聞こえてきた。

「オメエ、知ってるけえ。絵のやたらにうまい、あの養子坊主のことよ。なんでも借金のカタ同然の身だってよ」

「ああ、知ってるぜ。あいつの阿母おふくろ、半年前におっんだらしいけど、その前に息子を義理のある中島家に跡取りとしてくれてやったってことらしい」

借銭かりがかさめば、浮世の義理もかさむってことだわな」

「だな。後家のふんばりも立ちゆかず、労咳であっけなくお陀物ってわけだ。へへっ、なかなかの別嬪べっぴんだったらしいぜ」

 ………

 江戸ではその頃、多色摺りの錦絵が流行っていて、長栄軒ちょうえいけん(鈴木春信)の描く美人画が飛ぶようにけていた。

 春信描く「笠森かさもりお仙」の絵を、回向院前の絵草紙屋で見かけたとき、オイラは餓鬼のくせに目がまわって眩々くらくらした。

 げんなりするほどの辛抱と修行を重ね、一廉いっかどの鏡絵師になったって、こんな綺麗な絵を描けるはずもねえ。鏡師なんかより、お絵師のほうがずんと乙粋おついきだと心底思ったもんだ。

 のべつ鏡砥ぎで気が腐ったが、滅入ることはほかにもあった。

 中島伊勢の名跡を継ぐ者としての滅法界厳しいしつけだ。毎日、箸のあげおろしからはじまって、武家式の行儀作法が束になってどっと押し寄せてきた。

 野放図に育った本所割下水の洟垂はなたれが、武家の礼式という型枠に入れられ、朝から晩まで叱言こごとを飛ばされてはたまったもんじゃない。

「もう沢山だ。なにも四角四面のお武家でなくてもおまんまは食える」

 心のたががはずれかけた七年目の春のことだ。

 鏡師の家に、思いがけなく待望の赤ん坊が生まれた。五月人形のように、目のくりくりしたかわいい男の児だった。

 となると、この赤ん坊こそ中島家を継ぐべきだ。それに身の退き所を間違えば、邪慳じゃけんにされるだけだ。

 オイラは鏡師の家を飛び出した。

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