第72話 黄泉からの声―其ノ壱

 年が改まり、嘉永二年(一八四九)の正月、北斎は齢九十を迎えた。

 江戸はかさのある牡丹雪が霏々ひひとして降り積もり、八百八町はっぴゃくやちょうが彩りのない白銀に覆い尽くされた。

 さすがにこの大雪では、板元や門弟らの年始客どころか、物売りの声すらない。

 北斎とお栄が暮らす浅草聖天町の遍照院へんじょういん長屋は、雪遊びをする子供らの歓声がたまに湧き起こる以外、白い静寂しじまの中に沈みこんでいた。

 昨年末から肉筆画をたてつづけに描いた北斎は、さすがに草臥くたびれたと見え、炬燵の中でウトウトと微睡まどろんでいた。

 北斎は夢を見た。

 その夢路の中に、掘割に囲まれた御竹蔵おたけぐらはんノ木馬場の光景がおぼろに現れた。その辺りは、よく子供の頃、遊んだ場所だ。つづいて旗本や御家人屋敷のつらなりがそこはかとなく現れてきた。

 瞼の裏に、雪の降る中、ひとつ傘の下でうつむいて歩く母子連れの姿がうっすらと見える。雪にすっかり覆い隠されていても、その通りの景色にはしかと見覚えがある。

 ――これは、オイラが生まれた亀沢町かめざわちょうの通りだ!

 爪先が痛いほどかじかむ雪道で、ちっこい餓鬼が母親にむずかる。

「おっさん、さぶいよう」

「我慢おし、時太郎。お前は武士の血をひく児だよ。それに、もうすぐ着袴ちゃっこの五歳だ。へそにグッと力を入れて、口をきりりと結んでみな。そうすりゃ、弱音や愚痴なんぞ洩れるもんかい」

 北斎の耳に母の声が聴こえてくる。幼い頃に死に別れた母の声がする。

「いいかい。何遍なんべんも聞かされて耳に胼胝たこだろうけど、お前の曾祖父ひいじいさまは、小林平八郎へいはちろうって名前のお武家なんだよ」

「うん、赤穂あこうのお侍さんと立派に戦ったお人だ」

「そうさ。元禄十五年十二月の雪の日、赤穂浪士と斬り結んで、華々しい討死にをして果てたんだ。その平八郎の娘があたしのおっ母さん。つまり、お前のお祖母ばばさまなんだよ」

 雪道の上に、点々と犬の足痕あしあとが走っている。人通りはまったくない。

 急に、路傍みちばたにしゃがみ込む母の背中が見える。ハァハァと肩で刻むように喘ぐ。吐く息がやたらと白い。

 餓鬼のオイラがその背中をさする。

「大丈夫かい。おっ母さん」

「ああ、なんでもないよ。時太郎、よくお聞き。お前の躰の中には、わが身を捨てて戦う益荒男ますらおの血が流れているんだ。これから先、てて無し児と揶揄からかわれたって、平気の平左へいざと前を向きな。お前が物心つく前に死んじまったお父っつぁんを決して恨むんじゃないよ」

 お父っつぁんの名は、川村某と聞いた気もするが、うの昔に忘れちまった。

 あの雪の降りしきる日――オイラは本所松坂町の叔父の家に、養子として引き取られた。

 養父となった叔父の名は、中島伊勢。幕府御用鏡師の家柄だったが、跡継ぎに恵まれなかった。そこでオイラに白羽の矢が立ったというわけだ。

 雪のとばりの向こうに、回向院えこういんの山門が白く霞む。

 中島の家に向かう途中、おっ母さんの咳がぶり返した。その足が止まる。痩せた背をかがめ、再びしゃがみ込む。

 苦しそうな息の下で、オイラの頬を両手で包んで語りかける。

「いい子だ。辛抱して、一人前の鏡師になって、中島の家を継ぐんだよ」

 あのときの、おっ母さんの掌の熱さが、いまもオイラの頬に残る。

 半年後、おっ母さんは死んだ。

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