第71話 三曲合奏図の音―其ノ肆

「だから、死んだってのは、藤屋のお内儀、お富司よ。今朝、今戸いまど橋のたもとに、お土左どざ(水死体)となって浮かんでいたそうだ。覚悟の身投げなのか、足を滑らせて桟橋からドボンなのか、なんもわんらねェが、いま山谷堀ではその噂で持ち切りだ。遺書かきおきもねえってことだが、大方、亡くなったお嬢や御亭ごていの後を追って、入水じゅすいしたってェとこだろうよ」

「……嘘!」

 お栄は北斎の落ち窪んだ眼窩がんかの奥を探るように、その目を凝視した。北斎は黙ってお栄を見つめ返したのち、片眉を持ち上げて言った。

「オイラ、嘘と坊主の髪はったことがねえ。オメエ、この間、藤屋へ寄ったらしいが、お内儀の様子に変わったところは……」

 その言葉を最後まで聞くことなく、お栄は油障子をガラリと開けて、外へ裸足で飛び出していた。

 咄嗟に山谷堀へ駆けつけようと思ったが、考えてみれば、もはや詮方ないことであった。

 浅草寺の鐘の音が、七ツ(午後四時頃)を告げた。

 茜色の夕陽に染まって、ひとつ、ふたつ、みっつ、雪が鼻びらのようにひらひらと空から舞い落ちる。

 長屋の路地に立ち尽くすお栄の耳に三味の音が鳴った。いとが切れるかと思うほど、烈しくもせつない音色だ。

 瞼の奥から熱いものがこみ上げ、直後、お栄の頬を大粒の涙が伝い落ちた。

 濡れた瞼の裏に、ひと月前の別れぎわに見せたお富司の、何やらはかなげであったうしろ姿が浮かんでは消えた。

 ――あの日は馬琴さんのお弔いのあった日だ。そして、その夜に見た不吉な夢が、

 まさか正夢になるとは……!

 三味につづいて、胡弓と琴の音色が聴こえてきた。 

 お栄は路地にしゃがみ込んで、真っ赤な夕焼けの空を見上げた。

「こんな日だってのに、なんて綺麗きれえな夕陽なんだ。だよ。こんな日に似つかわしくないよ。おととい来なよ」

 そう叫んだお栄は、涙で歪んだ顔を手で覆った。

 みんな死ぬ。みんな遠いところへ逝っちまう。わたいを残して、善の字までもが逝っちまった。

 お栄の耳の奥で、三味と胡弓、そして琴の合奏が鳴りやまない。

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