第70話 三曲合奏図の音―其ノ参

 北斎は炬燵の中でもぞもぞと動き、懐から取り出した巾着きんちゃくを、お栄に「ほらよ」とばかりに投げ与えた。

 お栄が巾着を手にすると、ずしりと持ち重りがする。あわてて、その袋口をゆるめて中を覗いた途端、「えっ」と目を丸くした。

「ひえー、二十両ほども入っているじゃないか。書画会は大盛況、北斎先生の席画たるや馬鹿売れの図だ。やれやれ、これで無事に年が越せるよ」

「………」

 浮かない顔の北斎を尻目に、お栄の上機嫌は止まらない。

「あちこちの借金を払って、婀娜っぽい着物でも新調しようかね。ありたいなら芋虫いもむしは鯨でござんす。ふふっ、早速、お宝拝見させてもらうよ」

 にんまりと口元をゆるめたお栄は、巾着の中身を座敷にぶちけまけた。山吹色の輝きが、チャリンと音を立てて色褪せた畳の上に豪勢にこぼれ散る。

 お栄は真っ先に小判を手に取り、ひい、ふう、みいと数えはじめた。

 十まで数えた、そのとき――。

 北斎が何を思ったのか、炬燵から這い出てきて、お栄の描きかけの「三曲合奏図」に見入った。

 描きかけとは言っても、絵はほぼ完成している。

 木枠に張った絵絹えぎぬの上には、三人の女が合奏している場面が描かれていた。画面の右手には、三味の名手であるお富司の芸者姿。その左手には胡弓こきゅうを奏でる町娘、すなわち在りし日のお喜代の姿だ。そして、二人の真ん中には、うしろ姿の遊女が琴を爪弾つまびいている。

 あとは遊女の着物の柄を仕上げれば――という、いよいよ大詰めの段階に差しかかっていた。

 お栄は遊女の着物柄に、乱れ舞う蝶々の絵を描いてみようかと考えていた。

 この時代において、蝶々とは隠し言葉で遊女のことを指す。

 表地には蝶々、そしてちらりと見える裏地には蜘蛛くもの巣を描くことによって、遊廓くるわという蜘蛛の糸にからめ取られた女たちの身の上を表せるのではないかと考えをめぐらせていたのだ。

 北斎はその未完成の絵を見入ったまま、何も言わない。物思わしげに眉間に皺を寄せている。

 これがお栄のかんさわった。

「なんだよ。じれったいね。なんか言いたいことでもあるのかい。鈍付どんつくな面ァ引っさげて、いったいどうしたのかえ。この絵が気に入らないなら、さっさとそう言えばいいじゃないか」

「それがだなァ……」

 北斎が珍しく口ごもる。

「だから、なんだよ。ったく、らしくもないね。人がせっかく機嫌よく山吹を拝んでいるときに、なんだって言うんだよ」

 お栄は苛々いらいらして、北斎をかした。

「藤屋のお内儀かみが死んじまった」

「えっ。なんだって。だれが死んだというのさ」

 一瞬、お栄はわが耳を疑い、確かめるように訊き返した。

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