第69話 三曲合奏図の音―其ノ弐

 北斎は帰ってきて以来、浮かない顔で押し黙ったままである。その表情には晴れる気配がうかがえない。

 長屋の油障子を木枯らしが叩いた。外は凍えるような寒さだ。

 ――もしや、流行り風邪でも貰っちまったか。

 北斎の体調を案じたお栄は、絵筆を持つ手を止めて父親の顔を窺うように見た。

「お父っつあん、雪になっちまったようだね。早く炬燵に入んなよ。大丈夫かえ」

「ああ……」

「こんなさぶい日に、どこをほっつき歩いてたのさ」

五渡亭ごとていのところよ」

「えっ、前に言ってた山谷堀での書画会って、今日だったのかえ」

「ああ……」

 五渡亭とは、歌川豊国の一番弟子であり、三世豊国を襲名した国貞のことである。五渡亭という号は大田蜀山人しょくさんじんが名付け親で、国貞が武州葛飾郡本所五ツ目の渡し舟の船頭の息子せがれだったことに由来する。

 英一蝶はなぶさいっちょうに私淑していた頃は、香蝶楼こうちょうろうなどと名乗ったこともあるが、この五渡亭の号を気に入ったのか、国貞はこれを後々まで長く使用した。

 国貞と北斎の関係は古い。

 享和きょうわ二年(一八〇二)頃、国貞は北斎と親交のあった初代豊国の弟子となった。以来、豊国を介して四十年のつきあいとなる。

 これだけ長きわたって、二人の交友まじわりがつづいたのは、おそらく国貞の温厚柔和、かつ控え目な性格によるところが大であろう。

 北斎は自尊の念強く、天邪鬼な奇癖の持ち主であったが、だれかれ構わず片意地を張ったり、偏屈な態度で接したわけではない。

 この絵師がもっとも機嫌をそこね、へそを曲げるのは、馬琴との場合もそうであったが、相手に人を見下すような不遜な振舞いがあったときなどに限られた。

 どこぞのお大尽や殿さまがおのれの力を笠に着て、権柄けんぺいずくな態度で絵を依頼しに来たとしても、真っ平ごめんと断った。

 そのため、当時飛ぶ鳥落とす勢いであった人気役者尾上梅幸おのえばいこう(三代目菊五郎)や、大名の津軽家とも悶着を起こした。

 約束の画料を出し渋った阿蘭陀オランダ商館医シーボルトに、

「てやんでえ。日本人をめてもらっては困るんだ。値切れば応じると、思ってのことだろうがお門違かどちがいだね。第一でえいち、約束をたがえるような人間には、こちとら損しても売れねえ。顔を洗って、おととい来な」

 と、胸のすくような剣突けんつくを食らわせたこともある(無論、出島の通詞つうじ(通訳者)を介してであるが)。

 これら気骨稜々りょうりょうたる北斎の奇行は、広く人口じんこう膾炙かいしゃしているので、ここでわざわざ述べる必要もあるまい。

 北斎は反骨と奇矯ききょうの絵師であった反面、世の名声に溺れず、才をおごらず、いたずらに名利みょうりに走らずといったたしなみのある人物に対しては、好意を素直に示し、ときには侠気おとこぎをもって交わったことを本人の名誉のために申し添えておく。

 以上、余談が長くなってしまったが、こんな話で締めくくろう。

 嘉永元年のこの年に先立つ弘化年間(一八四四~一八四八)のこと。国貞が両国の某料亭を貸し切って書画会を催したとき、折悪しく烈しい風雨となった。当然、書画会に人は集まらない。

 このままでは、国貞は大損し、何よりも一流絵師としての面目が丸つぶれとなる。

 ――オイラが助っ人してやる。国貞、待ってろよ。

 北斎は国貞を助けるため、豪雨の中、草鞋に蓑笠みのかさ姿で両国に足を向けた。

 閑散とした書画会で、悄然としていた国貞に会って曰く、

「へい、葛飾の百姓がめえりましたよ」

 韜晦とうかい趣味のあった北斎ならではの科白せりふであった。

 荒天の只中、当代一の絵師北斎が到着したと伝わるや、国貞の書画会には続々と人が詰めかけ、活況を呈した。

 北斎これを見て莞爾かんじと打ち笑み、以後数刻、衆目の面前でこころよく筆をふるい、数十点の席画を揮毫きごうしたという。

 さて――。

 炬燵の中に大儀そうに潜り込んだ北斎に、お栄は訊ねた。

「で、今回、五渡亭さんの書画会の首尾は、どうだったのさ」

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