第68話 三曲合奏図の音―其ノ壱

 魚屋北渓からの馳走の刺身、それに羽二重団子で、腹がなったせいか、北斎は猛然たる睡魔に襲われていた。

「オイラ、この辺で……白河に夜船をぎ出すとするぜ。初五郎、また来な」

 そう言って、大きな欠伸あくびを洩らした北斎は、たちまち寝息を立てはじめた。

「初五郎さん、本当にごめんなさいよ」

 お栄は苦笑いして、父親の人もなげな振舞いを詫びた。

 なお、この日の二年後、北斎の期待もむなしく、愛弟子の北渓は病を得て不帰の客となった。江戸の門弟として残るは、宗治こと葛飾為斎をはじめとする数名という状態になってしまったのである。

 お栄にとって、長い一日となった嘉永元年(一八四八)の十一月八日が暮れようとしていた。

 その夜、お栄は煎餅せんべい布団に包まり、泥のようにねむりこけた。

 気味の悪い夢を見たのは、明け方のとろとろとした微睡まどろみの中であった。

 夢の中で、お栄は寒々しい枯野をさまよっていた。月光に霜のおりた枯草がきらめく。すると、見えてきたのは、枯野に横たわる馬琴の姿だ。白い経帷子きょうかたびらを着て、頭には三角布の天冠てんかん。その馬琴の枕元で、夜気をふるわせて三弦を弾く女が、うしろ姿を見せている。

 ――えっ、だれなんだい。 

 お栄は月明かりに目を凝らした。女も経帷子をまとっている。

「もうし」

 お栄が声をかけると、女が悲しげな表情で振り向いた。なんと、それは山谷堀のお富司であった。

 お栄はあまりのことに、声をふるわせて訊いた。

「お富司さん、そこで、どうして三味しゃみを弾いているんですかえ」

 その瞬間、三味の音を掻き消すように、つむじ風が唸りを上げて巻き起こった。月の光が消えた。目の前には一寸先も見えぬ漆黒の闇。その闇の奥の奥へと吸い込まれてゆく女の断末魔の叫び声に、お栄は「ぎゃっ」と叫んで耳をふさいだ。

 それから、ひと月余りが経過した――。

 冷たい木枯らしが土埃を巻き上げる師走の巷を、人々が首を縮めて行き交う。

 北斎とお栄が暮らす浅草界隈の通りにも、掛け取りに忙しなく駆けずり回る番頭や手代の姿が目立ってきた。

 寒風の中、暦売りが声を張りあげる。

「来年の大小柱暦、じ暦、紙代はんこう代、四文でござ~い」

 そのそばを、腰に注連縄しめなわを巻いた半裸の坊主が踊り歩き、おたな門付かどづけをして回る。

 引きずり餅屋もちやが荷駄車に釜、うすきねなどを乗せて、餅つき御用の家から家へと走り回る。

 そうした町筋の喧騒ざわめきが静まり、陽が西に傾きはじめた頃、両の肩にうっすらと白い雪をのせて、北斎が長屋に戻ってきた。

 草鞋を脱いで座敷にあがり、どかっと胡坐あぐらを掻いたきり、北斎がいつになく表情を曇らせている。文机ふづくえの前で絵筆を走らせているお栄に、「けェったぜ」の言葉もないのだ。外で何かあったというのか、珍しいことであった。

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