第67話 門弟魚屋北渓―其ノ肆

「と、とんでもございやせん。お師匠さんの中では、絵を描くこと以外、すべて瑣末な俗事でございやしょう。綺麗事きれえごとを言うつもりはございやせんが、あっしが隠居の身となったのも、お師匠さんの謦咳けいがいに接し、世の中、銭金じゃねェと気がついたからでござんす。ここらで俗世間のちりをすっぱり払って、お師匠さんのように一心不乱に絵の道に専心したいと願っておりやすんで……」

「おうよ。オメエの言うとおり、オイラは気随気侭きままに絵を描けりゃァ、おんの字なのよ。千石取れば万石うらやむではないが、人の欲にがねえ。鳥目ちょうもくを少しでも多く得ようとすれば、自分を偽って世辞のひとつも言わねばならねえ。他人さまの機嫌気褄きづまを取らねばならねえ。だが、そんな気ぶっせいなことを繰り返してたら、毒にも薬にもならぬ半可臭はんかくさい人間になり下がって、なんもできずにアッという間にお陀仏だ。いいか、オメエもわかっているだろうが、絵師ってのは瘦せ我慢よ。世間さまから紙屑絵師と言われ、名利みょうりひとつ得られずとも、おのが絵と向き合って死に物狂いで取り組まねばならねえ。毎日が真剣勝負よ。そんなしのぎを削るようなつばぜり合いの最中に、算盤そろばんはじいて銭勘定できるかってんだ。そうじゃあねェか」

 ――やれやれ、話が牛のよだれになってきたよ。これじゃ、初五郎さんに気の毒だ。

 お栄は北斎の長口舌を終わらせようと、貰い物の羽二重団子をそっと父親の前に置いた。

 肌理きめがこまかく、口当たりのよい羽二重団子は、別名芋坂いもさか団子ともいい、北斎の好物である。

 北斎がそれを口に入れるや、お栄は五合徳利の酒を北渓の猪口に注ぎ入れた。北渓はようやく喉を潤せたのである。

 口をもぐもぐ動かしながら、北斎がお栄に言う。

「芋坂団子となると、オメエ、下谷したや根岸くんだりまで行ってたのか」

「うんにゃ、山谷堀のお富司さんからの頂き物さね」

 お栄の口に「実は馬琴さんのお弔いに行ってきたんだよ」という言葉が出かかったが、それを喉の奥に引っ込めた。

「余計なことをしやがる」

 などと、北渓の前で悪態をつかれては面倒だ。

 羽二重団子を平らげて、再び北斎いわく、

「人の一生は、長いだけが能じゃァねえが、長生きしなけりゃ見えてこねえ境地もんもあるのよ。五郎八(蹄斎北馬)や一政(昇亭北寿)ら弟子のみんなは、師匠のオイラに先立って舎利しゃり(骨)になっちまったが、いいか、初五郎。オメエはなんとしても長生きして、この北斎をとも思わぬ絵師になるんだぜ。オメエはオイラより二十歳もわけェんだからよ」

 そこまで語ったとき、北斎は急に炬燵へといざり寄り、綿のはみ出した破れ布団を肩から引っかぶって赤茶けた畳にガバッとうつ伏した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る