第66話 門弟魚屋北渓―其ノ参

 北渓は師匠北斎の前に首を垂れ、ひたすらかしこまっている。

 その弟子を前に、北斎がいつになく饒舌にふける。

「たとえば、歌麿だ。すべての女子を母親や観音さまのようにあがめ立てた歌麿の絵は、たしかに綺麗きれえなものよ。女郎でも水茶屋の女でも、後光がさすかのごとく優しげに品よく描いた。当のご本人といやァ、毛むくじゃらのずんぐりむっくり、とんでもねえ醜男ぶおとこだってェのに、その女絵は黒極くろごくのお墨付きよ。だが、惜しむらくは、心にジンジン、キリキリと迫ってくるものがねえ。ところが、英泉を見ろ。女郎に金を湯水のようにつぎ込んだだけあって、女を見る目がめている。あれは、女という生き物の正体をあぶり出そうとした淫ら絵よ。結句、木乃伊ミイラ取りが木乃伊になっちまって、女郎狂いになり果てちまったが、芝居狂いだった写楽の役者絵同様、あやつの淫ら絵は半端じゃねえものがある。人間、多少狂わなければ、真に迫れねえェってことよ。画工も戯作者も胸のうちに木枯らしが吹いてねェなんてやつは、ダメだ、駄目だ。中途半端なことで、おのれをごまかそうとする」

 自分と相容れないものがあった英泉の名を聞いて、北渓は眉間にかすかに皺を寄せ、遠慮がちに口を開いた。

「しかし、深川の娼妓おんなとひっついた挙句、女郎屋の亡八ぼうはちにまでなろうとしたのは、さすがにいかがなもんでこざいやしょう。そういやァ、馬琴先生は食うや食わずの駆け出しの頃、蔦重さんに女郎屋の養子になるように勧められたものの、丁重にお断りしたと伺っておりやす。同じお侍の出身なのに、こうも違いが出るとは……」

 堅物らしい北渓の言いぐさであった。

 つと北斎が北渓を見据えた後、やおら言った。

「ふむ。たしかに英泉は、蝶舞ちょうまい(女郎買い)のこうじた末に、ろくでもねェ世渡りをしちまったが、それは絵の優劣にまったく関係ねェことよ。いいかい。画工や戯作者ってのは、いたのぼった作品もんさえ良けりゃ、あとは自堕落、淫乱、与太者、おまけに人でなしであろうが、一切合切、構ったこっちゃあねェってことだ。気難し屋の瑣吉さきち(馬琴)みたいに、他人ひとさまに嫌われ、疎まれ、煙たがられようが、おのれの胸に吹きさすぶ木枯らしに向かって、わが道をなりふり構わず突っ走れる者だけが、この世で大業をなせるのよ」

「へえ」

 お栄は二人の会話に口をはさまず、黙って長煙管を吹かしている。合間、合間に、手酌でグイグイる。

「自慢じゃねえが、頑固偏屈、へそ曲がりという点では、瑣吉とオイラはおっつかっつよ。しかも、なんの因果か、歌川一門や狩野派の絵師と違って、いつまでもこんな裏店で貧乏ひってん暮らしだ。結句、こんなきたねえボロ長屋にまで足を運ばせちまって、あたりきしゃりき車曳くるまひきながら、オメエにとっちゃ、つくづく迷惑なことだわな」

 北渓があわてて手を左右にふった。

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