第79話 小布施十八屋―其ノ弐

 お店者の忠兵衛が血相を変えて長屋から遠ざかった後、お栄は上がり框のところに置かれた柳行李を見て、にこりと満足そうな笑みを洩らした。

「へへっ。宝船の絵なんか買わなくたって、お宝は来るもんだねえ」

 お栄は柳行李の前で、パチンと柏手かしわでをひとつち、

「お父っつあん、いつものがお出でなすったよ」

 と、下駄を雑に脱ぎ捨てて座敷に上がった。

 北斎は相変わらず絵筆を走らせている。さっき夢に見たお辰の姿を描いているのである。

 お栄の眼に骸骨の絵が飛び込んできた。片膝を立てて、葛飾応為という絵師の眼で北斎の手元をみつめる。

 ややあって、その唇から薄い笑いが洩れた。

「ふふっ。滅法界、色っぽい骸骨じゃないか。このこごえる時季に、天邪鬼にも怪談牡丹灯籠ってェ寸法だ。おや、まっ、骸骨に小首をかしげさせて、媚態しなをつくらせるなんざ、芸がこまかいね」

 北斎は娘のお栄の言葉なんぞ歯牙にもかけない。

 ひたすら絵筆を生き物のように走らせ、群竹の暗がりを描き、さらに骸骨のげた灯籠に朱の色を入れた。灯籠にあやかしの灯がぽっと点る。灯籠の吊り具には、卍の意匠。画狂老人卍ここにあり、である。

 その手の動きを止めることなく、北斎はお栄に訊ねた。

「十八屋のもんが、その辺でごそごそしていたようだが、一体いってェなんの用だ」

「あっ、そうだ、それだよ。いやね、番頭の忠兵衛さんが、あれを届けに来てくれたのさ」

 お栄は上がり框の行李を指差し、声をはずませて言った。

「本来なら除夜の鐘が鳴るまでにお届する品ではございますが、年の瀬にお店でちょいと取り込みがあり、今日この日になったんだとさ」

「で、中身はなんでえ」

「ほら、毎年、大晦日に頂戴している祝い肴の品だよ。いつも義理がたくて、もったいないことだねえ。早速ながら、いただくとするかい」

「ほう。ありがた山のほととぎすだが、ちょいと待ちな」

 北斎は筆の腹を指先で軽くつぶした。

 その割筆の穂先に淡墨うすずみを含ませ、ささっと画面に陰翳をつけると、たちまち満月の明るさが輝きを増し、灯籠の灯が生々しい妖しさを加えた。

 さて、仕上げの筆である。

 おのれの描いた「骸骨図」の上に、北斎はくまなく視線を這わせた。それから、納得したように、わずかにうなづき、やおら「九十老人卍筆」と落款を入れた。

 お栄が父親の運筆を見届けて、地口じぐちを返す。

「ありがた山の次は、待兼山まちかねやまでござんす。腹ァすいて、北山時雨きたやましぐれ。いよいよ正月の祝い膳といこうじゃないか」

 あたかも頃合いをはかったように、浅草寺の鐘が九ツ(正午頃)を告げる。

 北斎が筆をいて、炬燵布団を肩からはずした。

 お栄は上がり框の柳行李のふたをそっとはずし、中身を確認した。

 途端に「へへっ」と口元がゆるんだ。

「豪勢だねえ。こいつは春から縁起がいいや」

 お栄の口が浮かれている。すっかり上機嫌のていである。

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