第63話 歓喜天の祟り―其ノ捌

 英泉の手がお栄の髪に触れている。

 お栄は熱風に身を焦がしながら、瞼を閉じて、英泉が唇を寄せてくるのを待った。言葉にならない言葉や、言葉にできない言葉が、お栄の胸を駆けめぐった。

 待乳山聖天宮境内の東から西へ、花散らしの風が吹き渡った。

 つと英泉が低声こごえでささやく。

「お栄さん」

「……ん?」

 お栄は薄目を開けた。

「髪に……こんなものが」

 英泉がその指先につまんでいたのは、墨堤桜の花びらであった。

 お栄の胸の火はしゅんと消えた。小火ぼやにもならずに。

 次の瞬間――。

 お栄の右手が木漏れ日にひらめき、英泉の頬に平手打ちを食わせていた。パチンと小気味いい音がした。

「善の字のお馬鹿。いっそ聖天さまに祟られて、死んじまえ」

 お栄は捨て科白を残して境内の石段を駆けおりた。

 駆けおりて振り向くと、英泉は頬を押さえて、「へっ、なぜにつらァ叩かれる?」といった顔で、境内に呆然と立ち尽くしていた。

 ――あれから、指折り数えて、もう十五年だ。

 あのときと同じ境内の、同じ石段のところに座り込んで、お栄はつぶやいた。

「いきなり、横っ面を叩かれた善さんには、気の毒な図になったもんだ。待乳山災難の図だよ。しかも、わたいが罰当たりなことを言ったばかりに、善さんは本当に死んじまった」

 すぐ下の大川から吹き上げてきた霜月しもつきの風が、お栄のほつれ毛を嬲る。その刺すような冷たさは、あの春のような甘やかな風ではない。

 お役者英泉と二人きりになったのは、あれが最後のことだった。

 天下一品の婀娜で自堕落で悲しい眼をした女絵を描いて、江戸っ子から万雷の喝采を浴びた後、派手な綾錦あやにしき緞帳どんちょうを一気におろして、浮世の舞台をさっさと降りちまった。

 そして、わたいと英泉は、未来永劫、男女二天がまぐわう歓喜天になりそこなったのだと、お栄はしみじみ思う。

 あの蛇山の長屋で、わたいの舟玉ふなだま(女陰)を必死に写し取ったとき、あいつは、初めて拝んだという地女じおんな(素人女)の裸の尻に何を感じていたのだろう。

「善さん。わたいのことをちっとは好いていてくれていたのかえ」

 などと、あの世に茶利ちゃりを飛ばしてたい気もするけど、言わぬが花の吉野山さ。どうせ、彼岸あっちから憎まれ口しか返って来やしないんだから――。

 お栄は、鯨帯に差し込んでいた朱羅宇の長煙管を膝の上に置いて、愛しげに撫でた。

 そうさ。京伝きょうでん張りのこの煙管は、あいつがくれたのさ。わたいにこれを寄こすとき、「いつぞやは観音さまを拝ませていただき、ありがとうござんした。拝観料でござい」なんて、照れ臭そうに片頬笑んで、小鬢のあたりをポリポリと掻いてた。

 お栄の胸の中に、甘酸っぱい感慨と、女に生まれた我が身をいとわしく感じるおもいが同時に交錯した。

 聖天宮境内の静寂を断ち切るように、猿若町のやぐら太鼓が盛大に鳴った。

 お栄は寒さで紫色になった下唇を噛み、やおら石段からみこしを上げた。

 ――あの頃は、英泉もわたいもまだ若かった。

 ふと、わけもなく目尻から涙が零れた。

「さて、帰って、お父っあんの長寿薬でもこさえるかね。龍眼酒がそろそろ底をつく頃だ」

 お栄はそうつぶやいて、待乳山から猿若町のほうへつづく石段をゆっくりと下りた。何やら口ずさんでいる。

うた夢見て笑うて醒める、辺り見廻し涙ぐむ。

 都々逸であった。

 石段を下りたところで、お栄ははすに空を見上げた。雨を落としそうな雲が、いつしか垂れこめていた。聖天下の道を右に曲がって、北新町きたしんちょうの通りを少し行けば、父北斎とともに暮らす浅草寺裏の狸長屋だ。

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