第62話 歓喜天の祟り―其ノ漆

 お栄が背中にまくり上げた着物の裾に手をかけ、身を起こそうとした瞬間、英泉の口から懇願するようなかすれ声が洩れ出た。

「お栄さん。頼みますから、もちっと辛抱してくだせえ。もうちょいでさあ」

「ったく。こんな変なところ他人ひとさまに見られたら、どうするんだえ」

 もう半刻はんとき(約一時間)も下半身をき出しにして、英泉に写生させているのである。

 所狭い裏長屋だけに、お栄は気が気でない。

 外の井戸端からは、顔馴染みの女たちが雀のようにさえずりながら、せわしなく立ち働き、時折、にぎやかな笑い声が響く。世話好きな畳職人の女房お里や棒手ぼて振りの女房お梅の声もする。

 ひょっとして、そのうちのだれかが、煮しめなどを盛った皿を手に持って、いつ戸を叩くやもしれぬと思えば、お栄は気がもめるのである。

 お栄の脳裡に、長屋のいちばん奥に住むおかねの皺くちゃな顔が思い浮かんだ。

 こめかみにいつも頭痛膏ずつうこうを貼ったお鉄は、小金貸しの老婆である。いまでこそ三途さんずの川の奪衣婆だつえばを連想させるご面相だが、若い頃は色を売る唄比丘尼うたびくにで稼いでいたという。

 日中から男の目の前に尻を突き出していたなんて、あの金棒引かなぼうひき(噂好き)の耳にでも入ったら――そう思うだけで、お栄は生きた心地がしないのだ。

 ――ったく、きもが焼けるよ。障子に心張棒しんばりぼうっておくんだった……。

 あっ、でも心張棒をしていると気づかれたら、男と絶対ナニしてると思われるし――千々に思い乱れるお栄の心中なんぞ素知らぬふりで、英泉は額に玉の汗を浮かべて皺襞しゅうへき迷宮に迷い込んでいる。

「善の字に変なことを言ったばかりに、こんなことになっちまって。わたいは、どうしようもないくさだるだ。底が抜けてる」

 長屋の油障子の隙間から風が吹き込んできた。

 胸の中で自嘲したお栄の鼻腔を、白粉おしろいの香が再びくすぐる。

 お栄は「いったいどこの女郎からの移り香だよ」と思いながら、英泉の躰から立ちのぼるかすかな匂いの品定めにかかった。

 鼻に全神経を集中して、くんくんと匂いを嗅ぐと、ひとつの白粉に思い至った。

 ――やはり、そうだ。これは坂本屋の美艶仙女香びえんせんじょこうだ。

 当時、この仙女香は巷で流行していた。京伝店の白牡丹という白粉は高直こうじきで、花魁の位でないと手が出せないが、坂本屋の仙女香なら岡場所の女でも使える。

 英泉自身、この仙女香を美人画のに描き込み、坂本屋の宣伝ひろめにひと役買っていた。

「この遊治郎、仙女香を馴染みの女どもに配って、にやにや脂下やにさがってるんだ。おたんちんのおたんこなす」

 お栄が胸のうちで毒づいたら、英泉がふと筆を止めた。

「お栄さん、ありがとうござんした。ありがた山のほととぎすが鳴き終わって、けきょ、けきょ、結構な勉強をさせていいだきやした」

「ふん、だ!」

 お栄はさっと着物の裾をおろした後、拗ねたような目つきでお女郎狂いを睨んだことを覚えている。

 その英泉とお栄は、いま待乳山の聖天宮にいる。

 歓喜天が祀られた本堂の前で、二人はじっと見つめ合った。直後、英泉の右手が妖しく動き、お栄の髪の毛にふうわりと触れた。

 酒の匂いがする息が、お栄の耳にかかる。

 お栄は思う。あの日、あのときのことを思い浮かべ、英泉と視線をからませる。

 ――この狂気じみた二皮眼が、あの蛇山の長屋で、わたいの尻を、わたいの股座またぐらを、わたいの秘所あそこをじっと覗き込んだのだ。あのとき、善の字は、この傾助けいずけ(女郎好き)は、地女のわたいにちっとは女を感じてくれていたのだろうか。

 英泉が躰を近づけてきた。

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