第64話 門弟魚屋北渓―其ノ壱
お栄が聖天横丁西隣りの遍照院長屋(狸長屋)へ戻り、戸口の煤けた油障子の前に立つと、中から話し声が聞こえる。
――おやっ、この声は初五郎さんだ。
前にも述べたが、初五郎とは北斎門弟の
その画号が示すように、かつて北渓は四谷
と言っても、ただの魚屋ではない。大名屋敷御用達の
「ただいま」
腰高の油障子をガラリと開けて、土間口に立ったお栄に対し、北渓がいかにも大店の旦那といった風情で、ゆっくりと
「お
北渓に接するたびに、お栄の胸はいつも軽い
「おやまァ、お出でなさい。そう言えば、半年前の
相も変わらずの丁寧な北渓の辞儀に、お栄があわてて膝に両手を揃えて礼を返す。
土間の隅には、きちんと脱ぎ揃えられた上物の
北渓は絵師としては珍しい、
明六ツの鐘の音とともに起き、
連れ合いに先立たれた後も、
こうした
北渓は師匠の北斎の前では
片や北斎は薄汚れた
――これじゃ、パッと見、どっちが
お栄が苦笑を浮かべつつ、座敷へ上がり、いつもの定位置である長火鉢の前に腰をおろすと、北渓が膝に手を当て、改めて
北斎は帰ってきたお栄に
無論、刺身は北渓の手土産である。魚屋の主であるだけに、この弟子は師匠北斎のために、みずから包丁をふるった馳走をしばしば持参していた。
「つまらねえ
北渓がそう言ってお栄に差し出したのは、五合徳利であった。
徳利の腹には、お栄も馴染みの酒屋「門前屋」の屋号。それは浅草寺
次いで、北渓は半紙に
猪口を手にしたお栄の前に、北渓がいざり寄って、酒を注ぎ入れる。
「下戸のお師匠さんの前で、一人で
この北渓の
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