第60話 歓喜天の祟り―其ノ伍

 お栄は自分が放ったとげのある科白にみずから興奮して、さらに言い募った。

「あのさ、女陰の恥毛そそげの描き方が、ちょいと雑なんだよ。たとえは悪いかもしれないけど、まるで毬栗いがぐりみたいじゃないか」

「………」

「淫らだけじゃ駄目なんだよ。もう少し艶っぽいというか、艶麗な感じを恥毛にしてほしいんだけどさ」

 歯にきぬ着せぬお栄の物言いに、英泉は切れ長の目を伏せて押し黙っている。かすかにふるえる筆の穂先。そこから、渋引きの畳紙たとうの上に置かれた天具帖てんぐじょうに、墨のしずくが一滴、ぽつりと垂れ落ちた。

 天具帖とは、下絵用の極上美濃紙である。

 英泉の手のふるえを見て、お栄は「しまった。言い過ぎちまった」と、内心ほぞを噛んだ。

 さりながら、自分の画力うでをけなされて、このまま大人しく黙っているような英泉ではない。喧嘩っ早い性分だけに、たちまち伝法でんぽうな口調でくってかかり、言い返してくると思われた。

 が、おかしなことに「てやんでえ」どころか、ウンともスンともなのだ。

 ――どうした、どうした、善の字。早く、わたいを謝らせておくれよ。

 口が過ぎたことに気がとがめていたお栄は、一刻も早く倍返しとばかりに、ひと太刀浴びせてほしかった。

 ところが、じれったいことに、なかなか段平だんびら(刀)を抜かない。

 ややあって、英泉はお栄のをじっと見つめ、思いも寄らぬことを口にした。

「お栄さん、じゃァ、拝ませておくんなせえ」

「えっ?」

「失礼ながら、向学のために秘所かくしどころを拝見仕りたく……」

「……!」

 お栄は息を呑み、英泉の二皮眼の奥を覗きこんだ。

 その双眸には、いつしか熱い紅焔ほむらが燃えていた。わたいが火をつけたのだ。消せない火をつけちまったのだ。英泉の大きな黒目に、漆黒の闇夜に狂う淫靡いんびな炎が燃えている。

 英泉が抑えたような静かな声で言う。

「女の玉門に四十八のひだありとか。枕絵師の渓斎英泉、今日こそこの両の目で女陰のなんたるかをしかと見定めたいと存じ、皺襞しゅうへき迷宮の奥の奥まで見極めるべく恥を忍んで頼み入ります」

 わたいの胸の中で半鐘はんしょうがジャンと鳴った。たちまち心の臓が早鐘はやがねを打つ。火事だ、火事だよ、炎が見える。わたいが燃やしちまったんだ。もう取返しがつかない。

 わたいは、自分でつけた炎に茫然と見蕩れた。

 英泉の赤い炎のような舌がちろちろと動いて、言葉を吐き出す。

「たしかに女郎の玉門は飽きるほど見ておりやす。でも、毛切り石や線香なんぞで綺麗きれえに手入れされた商売女のはさておき、いま描いている地女じおんな(素人女)のあれについては、いまだに拝んだことがねェんでさあ。何しろ、わっちは女郎以外の女とは一儀いちぎ(交合)に及んだことがねェもんで……」

 目の前の春画描きが、男にしては長い睫毛まつげをしばたかせた。

 そう言えば、英泉は素人の女には一切手をつけず、白首しらくびしか相手にしないと人から聞いたことがある。

 あのとき、英泉は業火に包まれていた。狂ったように燃え熾る業火に包まれていた。それは、おのが自身をも焼き尽くす一途一念の豪勢な金銀、緋色の炎だ。わたいの胸の鼓動が、擦半鐘すりばんのように狂ったように鳴った。掻き鳴らされた。もう永劫に止まらない。

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