第59話 歓喜天の祟り―その肆
二人の会話に出てくる墨僊とは、牧
去る文化九年(一八一二)、北斎は絵手本『
絵手本とは、もともと門人に与えるための肉筆の教本である。それが、板元によって大量に世に出されるに至ったのは、当時の北斎には門人が多く、そしてそれ以上に
北斎門下の絵師としては、
しかし、北斎は大仕事を急ぎ片付けねばならぬ場合を除き、身辺にできるだけ弟子を置かないという方針を貫いていた。
もちろん、門戸を張って多くの内弟子に囲まれ、
まして、弟子に時間と手間をかければ、おのれの画業の
ある日、門人の露木
「入門以来、長く描いてまいりましたが、まだ自在に描けません」
すると、北斎のそばにいたお栄が、為一にこう言ったという。
「親父どのなんぞ、こないだも猫一匹まともに描けやしねえと目を
江戸随一、否、当代一の絵師と謳われても、なお北斎の目の前には
ゆえに、自分の画技を伝授する『北斎漫画』などの絵手本を出板する必要があったし、
英泉が「尾張名古屋と言えば」と前置きして、思い出したように言う。
「たしか前年、あの
それまでの間、お栄はとりあえず枕絵や艶本といったワ印を描いて食いつながねばならない。
つと、艶本の挿絵を描くお栄の筆が止まった。
「善さん……」
「ん?」
「なんだ、なんだい、その
「えっ、変ですかい?」
「オレは春画描きだなんて自ら任じる割には、女のあそこが描ききれてないね。浮世絵師、
筆を持つ英泉の動きが止まった。
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