第58話 歓喜天の祟り―其ノ参

 お栄も内心では、父親の北斎にもう少し金銭面でしっかりしてもらいたいと思わないでもない。

 ところが、当の北斎は生まれついての天才肌というか、金銭にはさして興味がなく、絵さえ描ければ十分という性分であった。

 銭勘定が面倒なのか、掛け取り(掛け売り代金の取り立て)にやってきたお店者たなものに、書肆ふみやからの画料の包みをポンと丸ごと投げ与えることもしばしばであった。これでは当然、余計な代金おあし猫糞ねこはばされても仕方がない。

 北斎はまた上質な画材にも強いこだわりを見せた。高直こうじき(高価)な画材に加え、絵の資料も金に糸目をつけずに買いあさる。結果、毎月のついえがかさむことになり、常に内所ないしょ(家計)は素寒貧、まさに芸者の羽織(紋なし=文なし)であった。

 お栄が北斎の表芸ではない春画、艶本えんぽんの類を次から次へとこなさざるを得なかった理由はここにある。

 たとえば、北斎の艶本である『津満嘉佐根つまかさね』や『多満佳津良たまかつら』などの代作をはじめ、豪華枕絵本『浪千鳥なみちどり』もお栄の手彩色てさいじきによるものといわれている。

 無論、お栄の代作にはすべて北斎の落款が入ることになる。大北斎の落款さえあれば、好事家こうずかも書肆もよろこんで大枚を支払うのだ。活計たつきを立てるために、お栄は北斎の後ろ楯を必要とし、北斎はお栄の筆をたのみとした。

 美人画では北斎をしのぐ技倆うでを持ちながら、お栄自身の作品としては、代表作の「吉原格子先之図よしわらこうしさきのず」や「春夜美人図しゅんやびじんず」など十作ほどしか後世に残っていないのは、こうした事情によるものである。

 ちょっと話がれてきた。要らぬ講釈こうしゃくはさておき、蛇山の長屋に戻ろう。

 さて、お栄の枕絵仕事を手伝いながら、英泉がポツリと言う。

「そういやァ、お師匠しょさんはいつお帰りでござんすか」

「さァてね。親父さんもあの齢の割に、善さんと同じ風来坊みたいなとこがあるからね。墨堤桜ぼくていざくらつぼみが、一、二輪、ぽっとほころんだかと思ったら、草鞋わらじを履いて出掛けたっきり、音沙汰なしさ。く先々で、目についたものを描きとめるのにせわしなくて、便りを寄こすなんざ、時間がもったいないってとこさね」

「今度も名古屋の墨僊ぼくせんさんのとこにご逗留とうりゅうで?」

「いや、今回は尾張を素通りして伊勢から紀州辺りをまわるとか言ってた。墨僊さんのお宅に寄ってもいいのだけど、顔を見せると下にも置かぬ接遇もてなしなもんだから、ちょいと敷居が高いとこぼしてた。親父どのも、あれで存外、気がねする性分なのさ」

「そりゃ、はたから見りゃ裏山椎うらやましいの木、山椒さんしょの木。わっちも、お師匠さんのような大家たいかになりてえ」

 久しぶりに英泉の下らぬ地口じぐちを聞いて、お栄は笑った。

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