第57話 歓喜天の祟り―其ノ弐

「おっと!」

 わたいに袖を引っ張られた蚊とんぼは、階段の二段目あたりで、よろっと蹈鞴たたらを踏んだ。

「あぶないっ」

 その瞬間、わたいは目をつむった。

 気がつけば、英泉はわたいの肩にしがみついていた。顔と顔がやたらに近い。

 思わず、わたいは照れ隠しにあいつの目を見ながら言った。

「なことしちゃ、いけないよ。聖天さまは秘仏中の秘仏なんだ。不信心なことをすると、子孫七代まで福を吸い上げられるんだとさ」

 英泉が片頬笑んだ。

「ふふっ、自堕落なわっちなんざ、もうっくに煩悩ぼんのうの八万奈落、焦熱地獄の真っ只中でさァ」

 ――さすが、お役者英泉。気障きざな科白も板についてる。

 と、変な感心をしていたら、お女郎狂いがわたいの肩に手をかけたまま戯言たわごとをほざく。

「お栄さん。前から思っておりやしたが、い眼をしていなさる。ちょっとばかり不遜な光が垣間見えて、それがまた滅法界、婀娜あだっぽい。この櫛巻きの髪も、つぶし島田にでもい上げりゃ、もひとつ女振おんなっぷりがあがりやすぜ」

「ふんっ、いらぬお世話の焼き豆腐。わたいはこれでいいんだよ。髪を結うなんざ、面倒だ」

 そう言い返し、ひょろ高い英泉の顔を上目づかいで見ると、枕絵師が何やら不埒な気配を宿した目つきで、わたいの顔を無遠慮にみつめた。

 この眼だ。この狂気じみた大きな二皮眼が、かつて得体のしれぬ衝動と、ひりひりと灼けつくような熱を帯びて、わたいの尻を、わたいの股座またぐらを、わたいの玉門あそこをじっと覗き込んだのだ。

 疾っくの昔となったあの日の記憶が、つい昨日のことのようによみがえる。わたいは英泉の眼をめ返すように覗き込んだ。

 ――あれは文化が文政と改まった春、たしか蛇山へびやまの長屋にいた頃のことだ。

 文政元年(一八一八)の春、北斎は本所中之郷原庭町はらにわちょうの裏長屋にお栄を残して、独り飄然ひょうぜんと旅に出た。伊勢から紀州へと気侭きままにめぐる、いわゆるスケッチ旅行である。

 当時、原庭町の周辺には竹藪たけやぶが多く、夏ともなるとまむしがいたるところに出没し、そのため俗に蛇山と呼ばれる地域であった。

 その蛇山の長屋で女一人で留守をまもるお栄の身を案じてか、英泉はどこかのねぐらから三日にあげずに通ってきた。いつしか、墨堤桜ぼくていざくらも葉桜の季節を過ぎ、蒸し暑い梅雨の季節を迎えていた。

 絵筆を走らせながら、お栄が遠慮がちな声で言う。

「善さん、お気遣いはうれしいけど、わたいは大丈夫だよ。第一、こんな素寒貧すかんぴんの長屋じゃ、ぬすさえ顔を見せてくれないよ」

「へへっ、構わぬ、かまわぬ。わっちは北斎先生の一番弟子なんですから、いいんでござんすよ」

 英泉は七代目團十郎が好んだ「鎌〇ぬかまわぬ」柄の浴衣の袖を肩までまくくり上げ、ひたすら絵筆を動かす。来ると、お栄の枕絵描きを手伝ってくれるのである。

 鎌〇ぬ柄のはだけた浴衣の胸から、汗の匂いに入り混じって、かすかに白粉おしろい芳香かおりが漂ってきた。

 お栄は心なしか唇を歪めた。

 ――そうか。白首しらくびの移り香だ。昨夜は馬道うまみちか、辰巳たつみ辺りの岡場所で遊んでいたんだ。

 英泉が思い出したようにポツリとつぶやく。

「北斎先生もやりようにやっては、そこいらに豪邸やしきを構えることができるんですけどねえ。金銭に無頓着だからなあ」

「親父どのはあれでいいのさ。わたいが枕絵を描いて稼げば、おまんまに不自由なく暮らせるんだから」

 英泉がうなずく。

まんじ老人、もはや仙人の域でござんす」

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