第56話 歓喜天の祟り―其ノ壱

 竹屋ノ渡しから出た渡し舟は、規則正しい櫓音ろおとを立てて、大川の中州の間を通り抜けた。山谷堀の桟橋が目の前に迫ってくる。

 わたいからのひんやりした目配せが少しは効いたのか、結局、英泉は左官の長吉親爺に噛みつくことはなかった。

 ――ったく、ひやひやしたよ。とんだ道行きだ。

 渡し舟が桟橋に着くや、わたいは、とりあえず長吉親爺に「ご厄介をおかけしまして」と、頭を下げて、さっさと岸に上がった。

 頭を上げれば、幼馴染み同然の待乳山聖天しょうでんのお宮さまが見える。

 わたいは、英泉の態度にきもを焼いたせいで、むっつり押し黙ったまま足早に聖天宮へと向かった。

 気持ちがくさくさする。ええいっ、気晴らしだ。わたいは、下駄の音を高く鳴らして走り出した。走ると気分が実にいい。ついには裾をからげて韋駄天いだてん走りになった。

 子供の頃から、わたいの足はいっち速ェと評判で、男の子と駆けっこしても負けたことがないのが自慢だ。

 蚊とんぼの英泉を置行掘おいてけぼりにし、本堂へとつづく石段をからころと駆け上がる。英泉の雪駄の音が後からつづく。

 その日、境内に人影はなく、ひっそりと鎮まっていた。

 本堂のすぐ手前で追いついた英泉が隣に肩を並べる。酒が入っているせいか、ハァハァと死にそうに喘いでいる。

 ――ふん、遊治郎め。

 わたいは知らんぷりして、懐の紙入れからつかみ出した波銭なみせん(四文銭)を賽銭箱に投げ入れ、鰐口をガランと鳴らした。

 胸の前で掌を合わせ、眼をつむって真言を唱える。

「オン・キリ・ギャク・ウン・ソワカ……」

 唱えつつ、ちょいと薄目を開けて横に流すと、英泉が合掌もせず、半鐘はんしょう泥棒のようにひょろ高い躯体からだを折り曲げるようにして本堂をのぞきこんでいる。

「おやっ、どうした。せっかくだのにお参りしないのかえ」

「へへっ、どうぞかなえて暮れの鐘ってェよりも、ちくっといいことを思いつきやしたんで」

「へえーっ。その細い本多髷ほんだまげの頭で考えたとすりゃ、きっと御膳ごぜん上等なことなんだろうね」

 わたいは盛大に皮肉を言ったつもりだが、うすのろ英泉にはまるっきり通じなかった。どころか、鼻の下を人差指でこすって得意気に語る。

「お栄さん、知ってやすか。ここのご本尊、つまり歓喜天かんぎてんさまは、象鼻天ぞうびてんとも毘那耶迦びなやかともわれる異形いぎょうの神さまでさあ」

「ああ、聖天さまは、もとをただせば遥か天竺てんじくの神さまさ。なこと、こちとら無学な江戸っ子でござんすが、子供の頃から知ってるよ。でも、それがどうしたのさ」

「で、その姿形たるや、人身象頭の男女二天が、はちすうてなでひしっと抱き合う恰好とか。この本堂の奥には、その双身象のご本尊が安置されておりやす。へへっ、みだら枕絵師の英泉、ここは向学のためにも拝んでおかざァ、名がすたるってもんでさァ」

 そう言うや否や、英泉は素早く四囲まわりに眼を走らせ、足を本堂の内へと向けた。こいつ、やる気だ。

「善の字、およしっ!」

 咄嗟に、わたいは英泉の羽織の裾をうしろからグイッとつかんで引き留めた。

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