第55話 広重と英泉―其ノ伍

 英泉は「木曽街道六十九次」の岩村田宿で、どうして座頭同士が喧嘩する図をわざわざ描いたのか。それには、このね者絵師ならではの、ふたつの意味がこめられている。

 まず第一に、喧嘩の場面は板元の竹内孫八とのいさかいを表している。自分の絵を新進気鋭の広重の絵と比較されて、「ふざけるな」と頭に血をのぼらせた英泉は、孫八に対する怒りをこめてこの喧嘩図を描いたのである。

 第二に、盲人の座頭同士を喧嘩させたのは、自分の絵を評価しなかった孫八や世間に対して「見る目がねえ」と暗に皮肉るためであった(それが、伝わったかどうかはともかくとして)。

 英泉は、自身でも酒と女に溺れる自分をもてあましていた。板元から前借りし、岡場所に入り浸る。呑んだくれて、ふと行方をくらまし、板下絵の〆切は往々にして無きがごとし。まさに放埓ほうらつな放れ駒、はぐれ者であった。

 面倒を見てくれていた碇屋いかりや六兵衛という板元の唐桟とうざん羽織を勝手に七つ屋(質屋)に曲げ、その金で女郎屋へ走ったこともある。

 結句、自堕落、傾助けいずけ(女郎好き)、増上慢ぞうじょうまん、気随者といったかんばししからざる風評が流れ、絵師仲間や北斎の門人からも「気侭きまま八百の無頼者」などと不興を買う始末であった。

 それはさておき、英泉はこの岩村田宿を描いたのが、イタチの最後っとなった。英泉は木曽街道を二十四宿描いた時点で、保永堂の孫八と手切れとなり、残りは急遽きゅうきょ、広重が受け持つことになったのは皮肉なことといえよう。

 ついでながら、ここで記しておきたいことがある。

 広重は、北斎の死後、「冨嶽三十六景」の向こうを張って、「不二三十六景」を描いた。

 北斎の三十六景は、構図の大胆さ、面白さを追究した、いわば富士の心象像ともいうべき「心の富士」である。

 これに対して、広重の三十六景は、富士の正写しで勝負をかけた。見たまま、ありのままの「現実の富士」で対抗を試みたのだ。

 広重はさらにその後、「冨士三十六景」も描いた。これは広重没年の翌年(安政六年)に板行され、この絵師の遺作となった。

 天才は天才を知る。そして、眼前を行く天才におのれの命を賭けて肉迫し、追い越そうとあがき、悶え、苦しむ。

 北斎の独創的かつ斬新きわまる「冨嶽三十六景」、その中でも「神奈川沖浪裏」に眩暈めまいのするような言いしれぬ衝撃を受けて以来、広重は六十一歳を一期として生をえるまで、偉大な北斎のうしろ姿を執拗なまでに追いつつづけた。

 いざ、いまわの際になり、広重の感慨はどのようなものであったろうか。

 余談が長くなった。

 さて、お栄と英泉の乗った渡し舟の場面に戻ることにしよう。

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