第54話 広重と英泉―其ノ肆

 英泉は広重のことが気に食わない。

 というのも、私淑する北斎の向こうを張って、広重が「東海道五十三次」錦絵連作をはじめたからである。

 実は、あまり知られていないが、かつて北斎自身も「東海道五十三次」を描いたことがある。

 北斎の描いた五十三次は、十返舎一九の出世作『東海道中膝栗毛』を意識して、随所に弥次郎兵衛やじろべえ喜多八きたはちと似たような人物を配し、一種の道中風俗図に仕上がっていた。そのため、日本人好みの旅の愁いや情緒にいささか欠けるものがあった。

 この北斎五十三次に対し、広重五十三次は宿場ごとの名勝を取り上げ、旅情をそそる名所絵に仕立てられた。この趣向が、描いた広重本人ですら吃驚びっくりするほどの空前の大当たりを取ったのである。

 広重はこの出世作で、「冨嶽三十六景」を初市うりだして浮世絵界の頂点にいた北斎と人気を二分するに至った。

 当然、英泉にとって、こうした状況が面白かろうはずがない。

 しかも、広重は英泉と同じ武家の出であった――。

 英泉より遅れること六年の寛政九年(一七九七)、広重は江戸の八代洲河岸やよすがし(現八重洲)の定火消じょうひけし同心、安藤家の嫡男として生まれている。

 幼少から画才とみに優れ、歌川豊広の門人となったが、役者絵の国貞、武者絵の国芳といった綺羅星きらぼしのごとき天才絵師をつらねる歌川派の中にあって、鳴かず飛ばずの歳月を送っていた。

 その広重が「東海道五十三次」で名声を博し、彗星のごとく一躍世に躍り出たのである。

 ――この英泉ともあろう者が、ぽっと出の若造に先を越されるとは、なんとも情けねえ。

 われこそが北斎の再来――そう心ひそかに自負する英泉の矜持きょうじはいたく傷つけられたが、反面、「いつまでも年下絵師の後塵を拝するわけにもいくめえ」と、持ち前の負けん気がもむくむくと頭をもたげた。

 英泉は大胆にも同じ土俵で巻き返しをはかった。

 広重五十三次を出した地本錦絵問屋の保永堂ほえいどう(たけのうちまごはち)から、広重に対抗すべく「木曽街道六十九次」を板行したのである。

 しかしながら、英泉六十九次は、序盤から師匠北斎ゆずりの人間臭さが漂い、抒情に乏しい傾向きらいがあった。結果、大事な発市うりだしから思わしくない出足となった。

 出端でばなをくじかれて気がめた孫八は、苛立たしげな口調で英泉に注文をつけた。

「英泉先生、一立斎いちりゅうさい(広重)さんの東海道と比べ、今回の木曽街道ははかばかしくねェんでさあ。できれば一立斎さんのように、雪や雨を盛大に降らして、旅心をくすぐるというか、情緒纏綿てんめんたる雪月花せつげつかの風趣を絵面に出してほしいんですがねえ」

 この孫八の言いぐさに、英泉はブチ切れた。

 それだけでなく、怒りにまかせて、天邪鬼な筆を暴走させた。

 次に描いた岩村田宿いわむらだじゅくで、孫八の注文とは真逆に、座頭(按摩あんまなどの盲人の役職)同士が杖や拳をふり上げて、取っ組み合いの喧嘩をしている図柄を描いたのである。

 その風変わりな絵には、ね者たる英泉の斜に構えた皮肉がこめられていた。

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