第53話 広重と英泉―其ノ参

 英泉はね者である。

 変わり者のお栄から見ても、相当に風変わりな男であった。

 聞くところによると、英泉は寛政三年(一七九一)、江戸星ヶ丘ほしがおか(現赤坂山王)に、松本善次郎として出生したが、六歳の折に母と死に別れた。ために、松本家の養子であった父・政兵衛茂晴しげはるは本姓の池田姓に戻って、浪人暮らしの境涯に入ったという。

 茂晴は貧しいながらも書、俳句、茶の湯を嗜む趣味人であったようで、幼い英泉の画才を見抜いて、狩野白珪斎はっけいさいに画技を学ばせた。

 この父の奔走により、十五歳の頃、安房あわ北条藩の水野家藩邸に江戸詰めの侍として仕官がかなったが、二年後、枕絵を描いていたことで朋輩の讒言そしりを受け、みずから主家を辞した。

 枕絵の件は別にしても、英泉はそもそも武家奉公に不向きな性分であった。思っていることが、すぐ顔にも口にも出て、ひとたびかんさわれば、歯にきぬ着せぬ物言いで相手をやり込めるのだ。

 喧嘩っ早く、向こう見ずで意地っ張り。決して礼儀を知らぬわけではないが、山王権現下ごんげんしたに生まれ育った一本気な江戸っ子気質が、つい裏目に出てしまう面があった。

 主家を「てやんでえ」と飛び出した英泉は、おのれの文才を恃み、まずは歌舞伎狂言作者を志した。千代田才市と称し、市村座の狂言作者であった初代篠田金治(のちの並木五瓶なみきごへい)の門に入ったのである。

 だが、浪々の身となった英泉に不運が襲う。二十歳になったとき、父と継母ままははが相次いで病没し、後に遺されたのは幼い三人の異母妹であった。

 わが身一人の活計さえ覚束ない若者が、十一歳を頭とする三人の腹違いの妹を抱えたのだ。

 背中におんぶした幼い妹が泣く。

「おにいちゃん、おなかすいたよう」

 英泉は追い詰められた。脳裡をよぎる「餓死」「一家心中」の文字。まさに崖っぷちの状況であった。

 こうなれば、手っ取り早く稼げる枕絵や艶本えんぽんを手がけるしかない――と、英泉が考えたのは当然のことであろう。

 当時、単なる美人画の画料は銀二匁にもんめ程度。それが、枕絵となれば、画料はおよそ十倍、つまり一分いちぶまではね上がるのだ。

 英泉は父母を歿くした二年後の文化九年(一八一二)、最初の艶本『絵本三世相えほんさんぜそう』を発表した。

 そのときの隠号は千代田淫乱斎いんらんさい。以来、「オレは春画描きだ」とうそぶき、ワ印の道を無頼に突っ走っることになる。

 江戸の武家社会において、浮世絵などの画工は幕府御用絵師の狩野派から見れば、下賤な紙屑かみくず絵師であった。まして、春画、春本の類は低俗きわまりないものとして断罪され、度々、公儀取り締まりの対象となった。

 過ぐる文化九年(一八〇四)には、喜多川歌麿やその門人の月麿つきまろ、歌川豊国、勝川春英しゅんえいらがお上のとがを受け、手鎖てぐさり五十日の刑に処せられている。歌麿が入牢二年後に病死したのは、そのときの苛酷な御吟味おしらべが原因だろうと取沙汰されたものだ。

 お栄は、渡し舟の中で不機嫌そうにそっぽを向いている英泉の顔を、ちらっと盗み見て、胸のうちでつぶやいた。

「りゃんこ(二本差し)の身分だったのに、なんの因果で……こんな道に迷い込んだのかねえ。ま、はぐれ者のわたいが、他人さまのことは言えない。どこかに天邪鬼を退治できる薬はござんせんかね。ふふっ」

 お栄のそんな気持ちとはお構いなしに、渡し舟は山谷堀をめざして、ぎしぎしと進む。

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