第52話 広重と英泉―其ノ弐

「それは、隅田川渡舟って絵で、魚屋北渓とかいう表徳(画号)を持つ絵師でさあ。でも、北斎の一番弟子ではありやせんぜ。たしか二番弟子だったような……」

 長吉親爺が怪訝な顔をして訊き返す。

「おメエさん、やたら絵に詳しいね。やっぱり、画工えかきさんかい」

「へへっ、わっちも多少その道をたしなみますが、下手の横好き程度のお粗末でして。で、聞いた話によると、北斎の一番弟子ってェのは、たしか溪斎けいさい英泉ってェ表徳ひょうとくの画工とか」

「英泉……? ふむ、どこかで聞いたような……」

「そうでやしょう。なんでも美人画の達者とかで、滅法界ぞくっとするほど婀娜っぽい女の大首絵なんぞで大評判と聞いてやす。小股こまたの切れ上がった伝法肌の女を描かせりゃ、なかなかのものですぜ」

 ――善次郎のお馬鹿、うすのろ野郎!ったくいい気なもんだ。

 わたいは、心の中で毒づいた。

 すると、親爺が「そう言やァ」と、手をった。

「思い出したぜ。英泉ってのは、やたらに眼の吊り上がった江戸前の女を描く絵師だわな。すーっと横に流した流し目や半びらきの口が、へへっ、極無上に艶めかしくてよ。あの色っぽさにはそそられるぜ。近頃、歌川国貞や国芳くによしなんかも似たような女の絵を描いているが、凄味のあるい女を描せりゃ、英泉に軍配が上がるってもんだ」

 それを聞いた途端、英泉は「へへっ」と笑って、鼻の下を指でこすり、わたいのほうへ得意げな流し目をくれた。ったく、おめでたくて涙が出るよ。

すっかりいい気分になった自惚うぬぼれ天狗が、小鼻をうごめかかして親爺に語りかける。

「英泉ってのは、女絵だけじゃござんせん。最近、馴染みの地本問屋じほんどいやから聞いた話では、木曽街道六十三次なんてェ錦絵も出すってェ話でさあ」

「錦絵はいいねえ。中でも広重ひろしげの東海道五十三次。あれはいいぜ。絶品だァな」

 広重と聞いた英泉が、片頬をぴくりと引きつらせた。

 英泉は近頃、急激に頭角を現わしてきた歌川一門の広重に対し、過剰とも言えるほどの対抗意識を燃やしていた。

「へんっ、東海道五十三次がなんだってェんだ。あんな甘っちょろい絵がうけるなんて、どうかしてるぜ。だれもかれも見る目がねェんだ」

 と、広重の旅情芬々ふんぷんたる名所絵を口汚く罵り、けなしていたのである。

 なのに、広重の絵を親爺が「絶品だァな」なんて褒めたものだから、英泉は途端に機嫌が悪くなり、顔をこわばらせた。何か言いたげに口をとがらせている。これは、ちとまずい。いまにも毒を吐きそうな剣呑けんのんな顔つきをしている。

 わたいは善の字の袖をこそっと引っ張り、「およしよ」と目配せした。すると、手前味噌な自惚れ天狗は、あごに手を当てて薄笑いを浮かべた。苛立いらだったときの癖で、立て膝を揺すぶりはじめている。

 英泉はとにかく喧嘩っ早いのだ。

 ――こんな狭い渡し舟の中で、お願いたから喧嘩だけはやめておくれよ。

 わたいは再度、英泉に目配せし、念入りに釘をさした。

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