第51話 広重と英泉―其ノ壱

 大川沿いの墨堤のすぐ下には、竹屋たけやノ渡しがある。

 竹屋とは、山谷堀口にあった船宿の屋号である。

 別称「待乳まつちノ渡し」とも呼ばれていた、この竹屋ノ渡しは、三囲みめぐり稲荷から対岸の山谷堀に架かる今戸いまど橋南詰めを結んでいた。

 そこから岸に上がれば、江戸三座のある猿若町、浅草寺、吉原遊廓といった江戸有数の盛り場がある。それだけに竹屋ノ渡しの利用客は途絶えることがない。

 船頭がせっつくように渋い塩辛声を再び張りあげた。

「舟が出るよウ~! 出ますぜえ」

 まずい。曲がった松の木のといった体だ。柱()にゃならん。

 わたいと英泉は、花見客の雑踏をすり抜け、あわてて船着場に駆けおりた。

 花見の季節で、渡し舟は満員御礼である。船頭が櫓を漕ぐともの付近から、舳先へさきにかけて客が目いっぱい乗り込んでいた。

 英泉が先客らに「ごめんやして」と手刀を切りながら、わたいを先導する。

「へい、田舎者いなかもんでござい。田舎者が前を通りやす。えださわりやしたら、ごめんやして」

 まるで湯屋ゆや石榴口ざくろぐちのような間抜けな口上である。

  ――あーあ、これだ。そんなじゃ、馬鹿にされるのが落ちだよ。

 と、わたいは内心毒づいたが、あんずよりうめがやすし。

 紺の印半纏しるしばんてんを着込んだ職人風の中年男が、

「おう、ようがすとも。ささ、こちらへずずっ、ずいっとおでなせえ」

 と手招き、二人が腰をおろす空間すきまをつくってくれた。

「すみませんねえ」

 わたいが頭を下げると、男が角ばった浅黒い顔をほころばせて、機嫌よく口を開く。

「いいってことよ。袖振り合うも他生の縁。上からお天道さまも見てござる。こんな上天気の日に、他人さまにつれないことをすりゃ、ばちが当たるわいな」

 胡麻塩ごましお頭の男が言うように、花曇りであった空はいつしか晴れ渡り、まぶしい陽光が隅田の川面かわづらを輝かせていた。

 岸から離れた渡し舟は、櫓をぎしぎしときしませ、対岸の山谷堀口へと向かう。

「見なせえ。富士のお山も笑っていやすぜ」

 笑っているかどうかはともかく、胡麻塩が指差した西を見遣れば、浅草寺の五重塔の左手に、白いものをかぶった江戸っ子自慢のお山。

「綺麗じゃござんせんか。あっしには、真っ白い綿帽子で顔を隠した嫁っ子が、打掛の裾をひろげて座っているような図に見えますぜ」

 胡麻塩の見かけによらぬ言葉に、英泉が反応した。

「親爺さん、なかなか乙粋なことを言いなさる。絵心がおありなさるね」

「おうとも。あっしは左官で、鏝絵こてえをやるのよ。はばかりながら、鏝絵の長吉ちょうきちと言やァ、浅草界隈ではちょいと知られたもんよ」

「やっぱりね。お見それしやした」

 遊治郎の英泉のお愛想あいそに、鏝絵長吉が調子づいた。

「あっしが三日ほど前に、浅草寺門前の絵草紙屋で見かけた絵は、よかったぜ。大川の渡し舟を描いているんだが、水棹みさおを操る船頭や客の動きが生きてるようでさあ。で、店主にだれの絵でえと訊いたら、なんでも北斎の一番弟子とか……へへっ、名前は忘れちまったがね」

 わたいは、すぐ察しがついた。 

――この親爺は、初五郎(魚屋北渓)さんが、最近描いた「隅田川渡舟」のことを言っているのだ。

 でも、わたいは黙っていた。話が五月蠅うるさいことになると面倒だからね。ところが、おたんちんの英泉が、長吉親爺の話に能天気のうてんきに食らいついた。わたいは、やれやれと観念して瞼を閉じた。

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