第50話 待乳山追憶―其ノ肆

 忘八になりそこなった英泉が、満開の墨堤桜の下で手をふる。

「お栄さん。こっちへ来て、一杯やりなせえ」

 つい半年前、自分の妓楼みせが火事の憂き目に遭ったというに、今日の天気のように屈託のないあっけらかんとした声だ。

 善の字は、赤や緑の派手な振袖姿の白首しらくび(女郎)にぐるりと囲まれて、上機嫌のていであった。

 ――なんでえ、あいつ、脂下やにさがりやがって。

 わたいはわざとはす懐手ふところでして、へへんと弥蔵やぞうを決め込み、墨堤に突っ立って、お馬鹿な遊治郎(遊び人)を見おろした。

 すると、風来坊の英泉が走り寄ってきて、小鬢こびんきながら照れ臭そうに言い訳する。

「へへっ、あのらとは、なんでもありやせんで。あれは、最前たまたま出くわした子供屋の娘っ子でさあ」

 子供屋とは、深川界隈における女郎の置屋のことである。

「んなこと、わたいはひとつも訊いてないよ。近頃、んだ柿がつぶれたとか、なんだ神田かんだと言って来ないと思えば、やはり相も変わらずの岡場所通いかえ。しかも、こんな明るいお天道さまの下で、にやけた顔を若い弁天さまの前でぶら下げるなんざ、結構なご身分でござんすね」

「ふふっ、これはまたご挨拶なことで」

 遊治郎の酔眼が、一瞬、わたいの目をみつめた。

 わたいの胸のうちを覘き込むような目線だ。

 この野郎、十年早いよと思った次の瞬間、お女郎狂いがふっと片頬笑んで、軽い皮肉を飛ばしてきた。

「で、乙粋ななりをして、どこへ行きなさる?」

 わたいは返答に窮した。

 人を小馬鹿にしたような言いぐさに対して、「ええ、新調の着物で花見に浮かれ出ましたのさ」なんて、娘っ子のように素直な言葉を返せるわけもない。それは、この応為おうい姐さんの沽券こけんにかかわる。

 咄嗟とっさにわたいは小さな嘘をついた。

「いや、ひと仕事片付いたもんで、気散じに川向こうの聖天しょうでんさまへお参りさ」

「おっ、そいつはご信心なことで。じゃあ旅は道連れ。わっちもお供いたしやす」

 これじゃ、藪蛇やぶへびだ。思わず「いいよ、一人旅で気侭きままに行くさ」と、言いかけた途端、英泉は深川の娼妓おんなたちに向かって、團十郎ばりの声量のある声を放った。

「またなァ。わっちはこれから、岡惚おかぼれしているこの姐さんと道行でありんす」

 お役者英泉の芝居じた科白せりふに、まだ幼げな表情を残した白首らが爪紅つまべにをさした紅葉のような手をひらひらとふる。

「善さまァ、また今宵にもお出でなんし」

「お気をつけて、行かれなんし」

 振袖から真っ白い腕をのぞかせて、手をふる白首たちの中に、英泉好みの吊り眼の女が一人、さびしげに頬笑んでいる。

 そのとき――。

 三囲稲荷みめぐりいなり下の船着場から「おーい、舟が出るよウ~!」と、酒灼けした喉から絞り出すような塩辛声が聞こえてきた。渡し舟の船頭の声だ。

「ちょいと急ぎやしょう」

 英泉がわたいの手を取った。ええいっ、こうなりゃ仕方がない。ちょいと嘘をついたばかりに、お役者英泉と待乳山聖天まで道行きだ。

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