第49話 待乳山追憶―其ノ参

 思ったとおり、蚊とんぼは善次郎こと英泉えいせんであった。

 お栄と目を合わせた英泉は、色の白い細面のお役者顔をほころばせ、人なつっこい笑みを見せた。

 広くりあげた月代さかやき青黛せいたいを塗り、その上には筆のように細い本多髷ほんだまげをちょいとのっけて、色男ぶっている。

 しかも、近頃は金回りがいいのか、縮緬ちりめんの着物に黒八丈の長羽織をぞろりと着込んで、「へへっ、遊治郎ゆうやろうでござい」って感じだ。たぶん下帯も縮緬ってとこだろう。

 風の便りによれば、英泉はここ数年、なかなかの売れっ子らしい。『里見八犬伝』の挿絵を任されるほどで、方々の書肆ふみや地本問屋じほんどいやから引っ張りだこという噂を、お栄は耳にしたことがある。

 風来坊の英泉と最後に顔を合わせたのは、いつのことであったか――と、お栄は考えた。

 あれは、たしか浅草明王院みょおういん横丁の五郎兵衛店ごろべえだなに暮らしていた頃のことだ。

 英泉は、どこで引っ越し先を聞いたものやら、家移やうつりして間もない五郎兵衛店にふらっと現れ、あの日、朝から好事家こうずかのために描いていた枕絵の彩色さいじきを手伝ってくれたのだった。まるで、「昨日会ったじゃござんせんか」とでもいった、なんでもないような顔をして。

 あのとき、あいつは彩管を走らせながら、ぶつぶつと愚痴をこぼした。

 ――おやっ、善の字にしては珍しいねえ

 と、思いながら、わたいは筆を持つ手をつい止めて、聞いてやったのさ。

 風まかせのお馬鹿野郎が言う。

「実はつい最前まで、根津ねづにおりやしてね。へへっ、そこで、里介りすけと名乗って、忘八ぼうはちをやっていたんでさあ。ところが、わっちの若竹屋わかたけやという妓楼みせが火をもらって、真っ黒こげになりやしてね。色気も何もありやせん。ったく、お粗末なことになりやして……」

 忘八とは、人の守るべき仁・義・礼・智・信・忠・孝・ていという八つの徳目を忘れた者という意味で、主に遊女屋の経営主のことを指す。

 英泉はその忘八を根津権現の門前町でやっていたというのだ。

「へへっ、ワ印で稼いだ金をありったけつぎ込んだ結果がこれでさあ。おまけに見世を任せていた情婦いろとも、うまくいかなくなっちまって、しまらない話でござんす」

 親父どのは、英泉のぼやきなんかにはまったく興味がないといった風情で筆を使っていたが、わたいは無性に気が立って、つい刺々とげとげしい剣突けんつくをあいつに食らわせていた。

「ふんっ、万事、身から出たさびさァね。それに絵師なんざ、末は野垂れ死にが関の山というに、その覚悟もなくしちまって、女の生血いきちを吸ってのうのううと暮らそうなんて、いい料簡りょうけんじゃないか。ったく見損みそこなったね」

 声をとがらせてそう言い放った後、わたいの顔は、初心うぶな小娘のように上気し、枕絵を描く筆先がどうしようもなくふるえた。それを善の字にさとられたくなくて、下駄を突っかけて外へ出た。

 後で考えれば、英泉から辰巳たつみ娼妓おんな妓楼みせを任せるほど深間になったって聞かされたとき、自分でも知らぬ間にむらむらと甚助じんすけ(嫉妬)を起こしていたのだと思う。

 思わず長屋の外へ飛び出したものの、路地でふと我に返ったら、掌に絵筆が一本。

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