第48話 待乳山追憶―其ノ弐

 あれは、満開の桜が散る春の日だったと、お栄は記憶の画帖をめくった。

 ――そうだ。南本所番場町ばんばちょうの裏長屋に暮らしていたときのことだ。あの日、わたいはちょいと機嫌よく長屋を出た。あの頃、親父どのは「諸国滝めぐり」だか、「琉球八景」だかの大判錦絵を描き、その画料でわたいは婀娜あだっぽい子持ちじまの着物を新調したのさ。

 待乳山聖天まつちやましょうでんの石段に腰をおろして、お栄は瞬時、瞼を閉じた。その瞼の裏に、春もうららの大川溿を浮かれ気分で歩く自分の姿が見える。

 〽つくだ育ちの白魚さえも、花に浮かれて隅田川~♪。

 ――あの日は、薄日ながらも陽気のいい花見日和だった。親父どのは柳島の妙見みょうけんさまか、書肆ふみやにでも出かけたのか、朝から家を空けていた。わたいは、真新しい着物に鯨帯くじらおびをわざとはすに崩して締め、いざ鬼の居ぬ間に心の洗濯と、向島むこうじま墨堤ぼくていへ花見と洒落て浮かれ出た。

 源森川げんもりがわに架かる源兵衛橋げんべえばしを渡れば、水戸藩屋敷の塀がだらだらとつづく。そこまで来ると、墨堤桜が風にはらはらと散りこぼれてきて、ぐるぐるの櫛巻くしまきの髪にまとわりついた。

「お江戸の春だねえ」

 ああ、いい気分だった。

 絵を描くことしか頭にない親父どのは、天下一品、気難しい割に、絵筆で稼いだ銭金おあしや日々の些事さじには目もくれない。

 おかげでわたいは自由に振舞える。婚家だった橋本町の油屋にあのまんま居たら、こうはいかない。もう結婚なんて、金輪際こんりんざい真っ平ごめんだと思った。

 案の定、墨堤桜は見頃だった。

 桜の樹の下では呑めや唄えやだ。

 墨堤の道の両側には、花見客をあてこんだ葦簀よしず張りの掛茶屋がひしめくように並ぶ。どこからか、目蔓めかずら売りやかんざし売りの声が流れてくる。

 墨堤下の大川から三味の景気のいい音が聴こえてきた。川面には何艘もの屋形船が浮かび、旦那衆が着飾った芸妓おんな幇間たいこ持ちに囲まれて浮かれ騒ぐ。

 そうした花見船の間を小さな猪牙舟ちょきぶねがすいすいと通り抜けてゆく。吉原通いの猪牙舟だ。向こう岸を見遣みやれば、今戸いまど焼きの窯の煙が幾筋も立ちのぼる。

「親父どのに長命寺ちょうめいじの桜餅か、もしくは言問団子ことといだんごでもくれてやろうかね」

 お栄が北斎の好物である向島名物を思いつき、三囲みめぐり神社の大鳥居に差し掛かったときであった。

「ようよう、お栄さん」

 突然、墨堤で騒ぐ花見客の間から聞き覚えのある声がした。見ると、蚊とんぼのように痩せた背のひょろ高い男が、緋毛氈ひもうせんの上に澪標みおつくし棒杙ぼっくいさながらに突っ立ち、盛大に手をふっている。

 ――えっ、あの野郎、ひょっとして……あいつかえ。 

 わたいは、そのひょろっとした黒い影に目をらした。

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