第47話 待乳山追憶―其ノ壱

 お栄は待乳山まつちやまへ久しぶりに上がってみることにした。

 待乳山は、山とは言っても、わずか三丈ほどの小高い丘にしか過ぎないが、そこには古刹の待乳山聖天しょうでんがある。本尊は男女抱合像の歓喜天かんぎてんだ。

 お栄の手には羽二重はぶたえ団子の包み。お富司からの頂戴物いただきものである。

 広重の絵にも描かれた築地塀を横目に石段をのぼると、境内には子供たちの屈託のない声が満ちていた。

 かくれんぼや鬼ごっこ、竹馬、お手玉、竹のたが回し、巻貝の独楽こま回しなどに興じているのだ。お栄も子供の頃には、この境内で同じ長屋の子らと日が暮れるまで遊んだものだ。

「姉ちゃん」

 背後から響いた男の子の声に、お栄はハッとして振り返った。弟の多吉郎たきちろうとよく似た声であったが、違うのは当たり前であった。お栄に見つめられた男の子は、一瞬きょとんとした後、再び「姉ちゃん」と大声で叫んで、年嵩としかさの少女のほうへ走り去った。

 ――甘えん坊だったあの多吉郎も、いまじゃ御家人加瀬崎十郎さまだ。

 お栄は遠い目をして、口のをわずかに歪めた。遥か彼方へ過ぎ去った歳月が、走り去った子供のうしろ姿と重ね合わさり、「ふう」と溜息ひとつ。

 鬱蒼とした樹木に包まれた堂宇の前を通り抜け、境内の東端に向かう。眼下に冬の陽をはね返して銀色にきらめく大川の流れがある(この当時、隅田川は待乳山にほぼ面していた)。

 芝居小屋からやぐら太鼓の音が響いてきた。

 それを潮に、お栄は本堂の裏手へと足をめぐらせた。その境内のすぐ西側には猿若町があり、江戸三座の中村座や市村座、河原崎座ののぼりがはためく。そこからは浅草寺本堂の大屋根や五重塔も望め、遥か彼方には富士がそびえ立つ。

 古来、待乳山は東都随一の風光明媚な名勝とうたわれてきた。

 それだけに、この地は広重をはじめとする多くの絵師によって描かれ、北斎もまた『絵本隅田川両岸一覧』や『東都名所一覧』などで周辺の景勝を筆にしている。

 お栄は境内の石段に腰をおろした。

 ――少しお神酒みきが過ぎたかねえ。

 藤屋で頂戴した下り酒で火照ほてった頬を風がひとしきりなぶる。

 ふと脈絡もなく、お栄の口から一人言が洩れ出た。

「善さん、いまさら思えど六日の菖蒲あやめだけどさ。お前さんが若死になんかしたのは、きっと、あの日、聖天しょうでんさまによからぬことを仕出かそうとしたばちが当たっちまったんだよ。おまけに、わたいがご本尊の前で、ふしだらなことを考えたりしたものものだから……」

 あれは、文政の末頃であったろうか。いや、違う。与七よしち(十返舎一九)さんや、お美代姉さんの旦那であった重兵衛(柳川重信)さんが歿くなった後だから、天保てんぽう初期はなのことになる――。

 お栄は栄泉と連れ立って、この待乳山聖天に来た春の日のことを思い出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る