第46話 夜鷹図の女―其ノ捌

 その夜は、不気味なほど町全体が静まり返っていた。赤ん坊の泣き声、酔っ払いの喚き声、夫婦喧嘩の物音ひとつとてない盂蘭盆会うらぼんえの夜であった。

 溜息が出るほど蒸し暑い。

 北斎は眠れぬままに、浅草庵市人あさくさあんいちんどせんによる狂歌絵本(蔦屋版)の挿絵を描いていた。

 すると、突如、夜の静寂を破って、面の格子戸を叩く音がする。

 ――こんな夜遅くに、だれでえ。お辰なら「時ちゃん、ただいま」と言いながら、すっとェってくる。わざわざ戸を叩くわけがねえ。

 不審な気配に眉根を寄せた北斎が、土間口に出て表戸を開くと、そこに一人の女が蒼褪めた顔をして立っていた。二、三度顔を合わせたことのあるお辰の妹、お絹であった。

 薄い唇がわなわなと震えている。

 その様子にただならぬものを感じた北斎は、お絹の肩を抱くようにして中へ引き入れ、上がり框に座らせた。

「どうした? 何かあったのかい」

 その問いに、お絹はしゃくり上げるようなむせび泣きで応えた。

「姉ちゃんが、お辰姉ちゃんが……径動けいどに引っ掛かって……」

 径動とは警動とも言い、私娼を検挙・捕縛ほばくする行為を指す。

 当時、岡場所の女郎や夜鷹などは、お上の許可を得ていない隠し売女ばいたとして、不意に町方の手入れ、つまり径動があり、ひっくくられることがあった。

 捕えられた女どもは、公許の吉原遊廓に下げ渡され、「やっこ女郎」の身に落とされる。三年間、ただ働きを強制され、客を散々取らされて使い捨てにされるのだ。

 挙句、瘡毒そうどく(梅毒)など悪い病気にかかって死ぬというのが、奴女郎のお定まりであった。

 そうした汚辱はずかしめに、姉御肌のお辰が堪えられるはずもない。

 お辰は町方の手の者の前に、

「夜鷹会所のお辰をなめるんじゃないよ」

 と、父親の形見の匕首あいくちをかざして立ちはだかった。

 悪相の岡っ引きが十手をひけらかして、すごむ。

「ほう、てえしたもんだ。夜鷹にしておくには惜しい度胸だぜ」

「おやっ、親分さん。日頃渡していた鼻薬(賄賂)の効き目が薄れたようでござんすね」

「なっ、何をほざきやがる」

「あたしはね、これでも会所のかしらなんだよ。身内の女を守るために、最後のひと働き、させてもらいますよ」

 弦月げんげつの光の下で、お辰の匕首がひらりと舞った。「ぎぇっ」と断末魔の叫びをあげて、岡っ引きの喉から血が噴いた。

 しかし、多勢に無勢である。お辰はその後、捕り方数名に手傷を負わせたのち、返す刃でおのが喉頸のどくびを深々と切り裂いた。

「お辰!」

 北斎は見返り柳の下で、虚空に向かって、呼んでも帰らぬ女の名を叫んだ。

 日本堤の上に、一陣の風が遠い昔の記憶をなぶるように吹きすさぶ。

 その頃――。

 お栄はお富司に見送られながら、山谷堀の藤屋を後にしていた。山谷堀のすぐ上には、待乳山(真土山)の森がこんもりと盛り上がっている。そこはお栄が子供の頃から好きな場所であり、さまざまな思い出が詰まった特別な場所でもある。

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