第46話 夜鷹図の女―其ノ捌
その夜は、不気味なほど町全体が静まり返っていた。赤ん坊の泣き声、酔っ払いの喚き声、夫婦喧嘩の物音ひとつとてない
溜息が出るほど蒸し暑い。
北斎は眠れぬままに、
すると、突如、夜の静寂を破って、面の格子戸を叩く音がする。
――こんな夜遅くに、だれでえ。お辰なら「時ちゃん、ただいま」と言いながら、すっと
不審な気配に眉根を寄せた北斎が、土間口に出て表戸を開くと、そこに一人の女が蒼褪めた顔をして立っていた。二、三度顔を合わせたことのあるお辰の妹、お絹であった。
薄い唇がわなわなと震えている。
その様子にただならぬものを感じた北斎は、お絹の肩を抱くようにして中へ引き入れ、上がり框に座らせた。
「どうした? 何かあったのかい」
その問いに、お絹はしゃくり上げるような
「姉ちゃんが、お辰姉ちゃんが……
径動とは警動とも言い、私娼を検挙・
当時、岡場所の女郎や夜鷹などは、お上の許可を得ていない隠し
捕えられた女どもは、公許の吉原遊廓に下げ渡され、「
挙句、
そうした
お辰は町方の手の者の前に、
「夜鷹会所のお辰をなめるんじゃないよ」
と、父親の形見の
悪相の岡っ引きが十手をひけらかして、すごむ。
「ほう、てえしたもんだ。夜鷹にしておくには惜しい度胸だぜ」
「おやっ、親分さん。日頃渡していた鼻薬(賄賂)の効き目が薄れたようでござんすね」
「なっ、何をほざきやがる」
「あたしはね、これでも会所の
しかし、多勢に無勢である。お辰はその後、捕り方数名に手傷を負わせたのち、返す刃でおのが
「お辰!」
北斎は見返り柳の下で、虚空に向かって、呼んでも帰らぬ女の名を叫んだ。
日本堤の上に、一陣の風が遠い昔の記憶を
その頃――。
お栄はお富司に見送られながら、山谷堀の藤屋を後にしていた。山谷堀のすぐ上には、待乳山(真土山)の森がこんもりと盛り上がっている。そこはお栄が子供の頃から好きな場所であり、さまざまな思い出が詰まった特別な場所でもある。
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