第44話 夜鷹図の女―其ノ陸

 お辰に抱きつかれながら、北斎は本所亀沢町かめざわちょうのなめくじ長屋のわびしい佇まいを思い浮かべていた。

 あの頃、お辰とは本当の兄妹のように仲がよかった――。

 お辰はいとけない少女のときから目鼻立ちが整い、近所でも「綺麗な娘っ子」と評判を取っていた。

 そのお辰といつも連れ立っているものだから、近所の餓鬼どもから、しばしば「相惚あいぼれだァ、ちんちんかもかもだァ」 などと、ねたみまじりの野次を飛ばされたものだ。

 お辰が吉田町の親戚に貰われてからは疎遠になったものの、あの当時のことを思い出すと、北斎の胸にはいまでも甘酸っぱいものがこみ上げる。そうした淡い感情をお辰も抱きつづけていたのであろうか。

 二人がわりない仲になったのは、その夜のことだった。

 以来、お辰は北斎の長屋に、三日にあげずに通ってくるようになった。

 からだを重ねるにつれて、北斎はお辰に耽溺し、五感のすべてを駆使して、愛しい女の肢体をまさぐりつつけた。

 この頃から、北斎は独自の美人画を模索しつづけた。

 北斎は、狩野派の融川ゆうせんに師事したのち、江戸琳派の百琳斎ひゃくりんさい(初代俵屋宗理そうり)に私淑したことがある。 

 俵屋宗達そうたつや尾形光琳こうりんの流れを汲む百琳斎は、せさらばえた老骨に鞭打って、豪奢な京琳派とは画風を異にした瀟洒しょうしゃな江戸好みの筆をふるい、琳派再興のために精進していた。

 しかしながら、百琳斎は私淑すること数年してみまかった。北斎が二代目俵屋宗理を襲名したのはこのときである。

最初のっけから小器用に描こうとするんじゃねえ。心眼に映るものを描くんだ。そのためには、描こうとする対象ものを目ん玉ひんいて見なきゃなんねえ。京絵師の若冲じゃくちゅうのような眼を持つんだ。朝から晩までにわとりをみつめつづけた若冲の心を思え。いいか、頭や手で描こうとするな。両の目で描くんだ」

 お辰をおのれの前に据えて、その姿を写し取りながら、北斎は白い顎鬚あごひげをたくわえた百琳斎が言い遺した言葉を胸の中で反芻はんすうした。

 ――そうだ。心眼だ。気魂たましいだ。生命の中に宿る神気しんきを捉え、魂までも正写しょううつしせずにはおかぬという心の眼で描かねばならぬ。お辰のためにも魂のこもった絵を描き、一廉いっかどの絵師として身を立てねばならぬ。

 画工としての念を一心に燃やす北斎の視線の先には、二人の男がいた。それが、いまをときめく喜多川歌麿(勇助)と初代の歌川豊国(熊吉)であった。

 当時、この二人の美人画は世間で持てはやされ、絵草紙屋で飛ぶように売れていた。

 ――少し先は越されたが、いずれ追いつき、追い抜いてみせる。このオイラが、勇助や熊なんかに負けてたまるもんかい。

 北斎は、禿びた安物の筆を走らせ、歌麿と豊国の美人画にまなじりを決して挑んだ。

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